アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

開館10周年記念「デ・ジェンダリズム」。1997.2.8~3.23。世田谷美術館。

f:id:artaudience:20200826114248j:plain

開館10周年記念「デ・ジェンダリズム」。1997.2.8~3.23。世田谷美術館

 

1997年3月15日。

 

 せっかく期待をふくらませて出かけても、その期待に実際が追い付かないことは、当然のようにある。それは、展覧会側だけでなく、見る側の理解力不足が原因のこともある。

 

 その展覧会は、日曜美術館で見た時は凄くよく見えた。

 様々なバリエーションの作品、いろいろなアーティスト、そしてテーマ。

 デ・ジェンダリズム。回帰する肉体。さらに世田谷美術館の開館10周年記念という言葉まで付いている。どこかで、1月に見た「プロジェクト・フォー・サバイバル」と比べ、知らないうちに似たような期待を抱いていた。

 公園の中にある気持ちのいい場所。

 

 確かにいろいろな作品が並んでいる。

 鏡を使って連続する無限という不思議な感じも出ている草間弥生の作品。

 裸でパフォーマンスを繰り広げる馬六明、自分の顔のついた男か女か分からない赤ん坊らしき絵はリアルさもあった。

 全裸で作品を体験できる八谷和彦の「ひかりのからだ」は参加できずに残念だった。

 しばらく経って振り返ると、全部で15人が作品を出品しているのに、それくらいしか思い出せなかった。

 

チラシの裏の文章をうつしてみる。

 

『私がつくろうとしているものは未だかつて誰も見たことのないものであり、名付けることができないもの、あらゆる定義からのがれようとするものなのです。

                     1968年 エヴァ・へス

 

 タイトル、「デ・ジェンダリズム」は、ある人間のアイデンティティを問うとき、まず男か女かを問い、そしてその社会的役割(ジェンダー)というフィルターを通して「その人は何なのか」を判断しようとすることへの疑問から始まっています。もちろん性差だけでなく、多くのイデオロギーや思想が「イズム」を形成し(人種差別主義、レイシズム社会主義ソーシャリズムなど)、これらはその人がどういう人間なのかという分類分けをするうえで機能しています。

 20世紀末を迎え、近代が築いてきた価値観がゆらぎ、地滑り的にさまざまなイズムの構造が崩壊しつつある今、これらにこだわり続けることへの疑問が今呈示されています。このタイトルはすべてのイズムを見直し、これを脱構築することへの呼びかけと、まずあなたをしばる性差の呪縛の見直しからはじめて、存在、身体のありのままの原点に回帰することへの呼びかけ、2つの意味での積極的な21世紀にむけての提案がこめられています。

 8ヵ国、15人に及ぶ出品作家たちはいずれも、自身の身体、存在とあるがままに向き合い、表現を通じて世界との唯一の新たな関係をさぐっていこうと模索してきたアーティストたちです。ある者は主流であるモダニズムへの批判を通じ、ある者は身体への試練を通じて⋯。地滑り的に崩壊して行くものの中から、次なる形がたちあがっていくような不安な過程です。ゆえに今、私たちに求められているのは、自分と他者をしっかりと見据え、世界を抱擁する勇気と想像力ではないでしょうか』。

 

  企画は基本的には今まで通らなそうなものを通していくことのはずだから、まして今までのものが崩壊しようとしている、という前提を掲げているのだから、ますます認められてないものを認めさせるという覚悟が感じられて当然なのに、申し訳ないのだけど、それがあまり感じられなかった。作家よりも、この展覧会を企画した人間にその責任が大きいと、個人的には思った。

 

 

 

(1997年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

www.amazon.co.jp