2007年9月8日。
東京都現代美術館の大規模な個展を見て、すべてが森村の顔だった。その後、テレビ番組を見て、この人は本気なんだ、美術に関して伝えることに賭けてるんだ、みたいな気合いみたいなものも分かった気がして、急に興味が深まり、本も読み、川崎の個展にも行き、そこで対談も聞いて、なんだか感心もして、でも、そこで妙な言い方だけど、一段落みたいな気持ちにもなっていた。
最近になって、テレビでフィルメールの絵の部屋を再現する、という作品も見た。今年になって、また個展を熊本でやったのも一応、知ってはいた。「美の教室、静聴せよ」展。原美術館でまったく予想もしていない時に、森村の新しい作品…三島由紀夫になって、というより、あれから先の三島由紀夫になろうとして、ゲキをとばす姿のビデオ作品を見て、素直にスゴいと思えた。本気だったし、覚悟も見えた。また森村への見方が変わった。
図書館で、美術手帳を読み、今度の個展は、音声ガイドを無料で貸し出し、作り手本人の説明を聞かせながら作品を見せようとしている。それも授業のように、教室のように、というような文章を読んで、また一歩踏み出した、少なくとも踏み出そうとしている、と思い…それは三島由紀夫の作品を見た、という印象が強いのかもしれないが…それで、横浜美術館に行こうと思い、妻も誘って、出かけることにした。
最初は、ホームルールという設定。それも爆撃の後の写真をモチーフにしたという設定の小部屋。そこで、学校にあるような机とイスが並び、そこに座って森村が説明する映像を見る。独特の距離感。押しつける感じは少ないが、でも、どこか確固としたものも感じる。上からではない、なにか不思議な話し方…著書の中などで、教師をしていたが、不登校だった、という過去をキチンとやり直そうとしているのかもしれない、などと思わせるものもあった。
そこから、妙にがらんとした印象のある吹き抜け(?)というか、回廊というか、不思議な空間を使って、本の鳥という作品で「1時間目の部屋」まで導いていくような形になっているので、そうしたがらんとした感じがしなかった。この人は、本当に作品を見てもらえない時間があった人なんだ、と思った。
そして、1時間目は「フェルメールルーム」。作品として写真になったものより、それを構成している服、小道具などが、テレビなどで見て想像していた以上に、いい出来というか、いい作品になっていると思った。そして小さな機械から聞こえてくる森村の話や話し方も、自作を特権的に語る、という感じからは遠く、もっと水平な、いや下から、ではなく後ろから前へそっと押すように話しているのではないか、と気づく。決まっている答えを言い切るのではなく、謎めかせているわけでもなく、いっしょに考えるという形、それも自分でも扱いかねるようなことも含めて、聞く人に手渡そうとしているようにも感じた。それは誠実ということだったと思う。
ゴッホルームでは、この作品が、こうしたシリーズの最初のものになっているはずだけど、全体に漂う予算がない感じとか、帽子をクギにしたりとか、こっけいな感じはあるにしても、それでも、やろう、という意志のようなものは強く感じる。
いろいろな作品の中で、モナリザが一番、知性で作っているような気がした。レンブラント、ゴヤのシリーズ、女性に扮している時がやっぱり生き生きして見えたりするし、最近になった方が、おそらくは予算もかけているだろうし、スゴく仕上がりがきれいになっていたりするが、この作家は、少し異端といえるような人になる時にフィットしている気がする。
フリーダ カーロ。背骨のかわりに自分の腕をかだとって、それで支えている作品は、後で思い出しても、すごくいい、と思った。
そして、三島由紀夫。見上げる位置にある、ということは実際の演説の時の場所に近いのかもしれないが、原美術館で見た時よりもはるかに大きい画面。この方が、いい。いろいろな作品をへて、一番新しいのが三島由紀夫。ここに来た覚悟を感じる。前へ進む以上、観客として、ずっと見ていきたい。そんなことをアンケートにも書いた。覚悟のある人は、すごくカッコいい。普通なら、無様に見えそうなこともウソがないと、やっぱり、確実になにかが伝わってきた。
見終わってから、美術館の中で、カタログと本と和三盆の菓子を買い、カフェで給食セットを食べた(教室、という設定だから)。焼きそばパンやヨーグルトや牛乳。帰ってから、お菓子を少しずつ食べた。表面には森村が創作した、という漢字。これ見よがしではない感じがした。
楽しかった。
静聴せよ。というタイトルじゃない方が、もっと人は来るのに、とも思ったが、後になって、やっぱり、この言葉は必要かもしれない、と思うようになった。
(2007年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。