アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「テリトリー。オランダの現代美術」。2000.8.2~10.9。東京オペラシティアートギャラリー。

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「テリトリー。オランダの現代美術」。2000.8.2~10.9。

東京オペラシティアートギャラリー

2000年9月27日。

 

 正直、このテーマですべての作品がくくれるとは思わないし、そのことで何かが際立ってくるわけでもない。少し無理があるタイトル、という感じがする。そのなかでも、スーチャン・キノシタのラフスケッチは、本当にラフにしか見えなかったし、全体でも、作品の印象が残りにくかったのは、テーマに無理があるせいかもしれない。ただ、もしかしたら、見る側にテリトリーというものに関して、切実な感覚が足りないせいもあるかもしれない。

 

 病院へ行くために電車に乗る機会が多くなった。周囲の人の距離感のなさにいらだつことも増えてきた。他にも場所があるのに、人が立っているすぐそばに、さわれるくらいの近くに平気で寄ってくる中年男性。降りる人がいるのに、ほとんどそのスペースをあけずに人にぶつかって乗り込んでくる中年女性。手の平で黙って、人をかきわけるように前へ進む男。一人で、いらついているだけかもしれない。考えてみれば、毎日のように満員電車に乗っていれば、人との距離感にいちいち反応しては生きていけないのかもしれない。多少、ぶつかっても相手が謝らないのは、なめられているとかではなく、単にものすごく鈍くなっているだけかもしれない。

 

 この展覧会で、たたみの上で寝っ転がったり、会場に用意された土の上で妻と2人で陣地とりをしたり、と体を動かすのが確かに新鮮だった。中でもトランポリンではねると、自分の体がものすごく無様に重くなっていて思った通りには全然動かないことに改めてよく分った。世の中と自分との境目がよく分からなくなっていた。自分の体は、世の中とをつなぐものでもあるし、同時に区切るものでもあるから、もう少しシャープにしないと、いろいろなことに鈍くなる、と思った。

 

 6月に入ってからの母の病気の再発。看護。怒り。過労。ストレス。自分自身の急性心房細動。母の転院。そして、やっとアートを見に来れるようになった。先は見えない。そのことを忘れるためにも、体を動かすのは役に立った。ただ、トランポリンで高く跳ぼうとして、着地のタイミングも合わせることが出来ず、重くなった体重をもろにかかり、腰が痛くなって、妻に笑われた。

 

 

(2000年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

www.operacity.jp