2010年12月16日。
月曜日から水曜日までの3日連続の学校での発表も終わり、ホッとして、昨日も終電で午前1時過ぎに帰って来たので、今日はアートデーだけど、11時半に起きて、それから出かけて、広尾のパン屋さんでパンを買って、食べながら坂道を上がって、ギャラリーには午後1時前には着いた。
いつもとは違って、木の板と木の机があって、床とその板や机の上にひたすら器が並んでいる空間になっていた。他に何の仕掛けも、飾りもない。ビデオで、この展覧会のために焼いている場所や本人が語ってる様子が流れているだけだった。大きなつぼのようなものを見ていて、急に浮かんだイメージと重なった。上野の東洋館という博物館があって、そこにエジプトのピラミッドから発掘されたものがいろいろと置いてあって、その中の調度品のようなものを見ていたら、その自意識のなさに、すごいというか感動したことがあって、というか、そういうことに感動とかするのは、自分もそうだけど、自意識が強くなりすぎた現代人だけだと思いながらも、4000年くらい前の人が作った作品、作品という意識がなく、ただお墓におさめるために、本気で、おそらく王のために、とだけ思って作ったようなものがあって、そのイメージと重なった。
今まで、器を、といってもほとんど見た事がない。あるとしても、古いお茶の茶碗を見て、ああ持ち心地がよさそうだ、とか、きれいかも、などと思ったくらいだったけど、でも、最近の作品などを見ていて、その人の意識が出過ぎていて、嫌だな、などとそれほど知らない癖に思ったことなどが重なって、この小野哲平という人の器には、自意識をあまりこめないように、というより、使う人のために、という目的の気持ちがかなり強いのではないか、と思えた。
自意識からなるべく自由になるためには、誰かのため、とか、何かのためという意識さえもなくなるくらい、自分じゃないために作ることかもしれない、などと思ったりもして、そんな事を思いながら見るのは邪道だと思いながらも、でも、眺めていて、見ていて、なんだか気持ちが悪くない。
静かに、そこに器がある、という言い方をしてしまうと、それは言い方が気持ちが悪くなってしまうのだけれど、使うためのものを置いてあって、よかったら買って使ってください、というような自然な姿というように見えていた。
何人かの観客がそこにいて、畳の上のスペースにはやはり板が置いてあって、そこに並べてあり、手にとって見ているので、私と妻も手にとり、持ってみたり、裏を見ると、赤い○がはってあって、売れたんだな、と思い、湯のみでも、と思ったら、ほぼ全部が赤い○があって、小皿も、お、いいなと思ったものには赤い○が並び、土の黒がそのまま出ているようなものには印がついていなかったが、妻が、これもいいんだけど、並べる料理が難しい、おいしそうに見えないかも、と言って、なるほどと思って、おそらく同じようなことを思って、買うのをやめた人がいたんだろうな、と思えた。
しばらく見て回って、妻が、今日は買うつもりで来たの?と、ちょっと真剣な顔を顔をして聞いたので、妻が気にいったのがあったら買うよ、と答えた。そしたら、やっぱり欲しいのがあるというので、見たら、小さめのラーメンのどんぶりのような器で、外側に雲が流れているような白い部分があって、私も見ていいなと思った。ただ、私だけなら、もう一つのもっと強さが表に出たようなものが欲しい、と言ったが、二人で使うのならば妻が気にいったものが優先だった。1万1500円。うちには、分不相応のものがだが、でも、これがあることで未来への力になる気がしたので、思い切って買った。買った人の名簿みたいなものに名前を書き込んでいたら、本人が現れた。何かしゃべりたかったけれど、目があって、おじぎをしたら、小野氏も静かにおじぎをしてくれた。なんだか嬉しかった。広尾で食事をして帰った。
(2010年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。