アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

第69回Café Talk+Tadashi KAWAMATA「‘文化’資源としての炭鉱2」。ゲスト:キートン山田(俳優・声優・ナレーター)+川俣正。2009.7.30。ヒルサイドブラザ。

f:id:artaudience:20210217105217j:plain

第69回Café Talk+Tadashi KAWAMATA「‘文化’資源としての炭鉱2」。ゲスト:キートン山田(俳優・声優・ナレーター)+川俣正。2009.7.30。ヒルサイドブラザ。

 

2009年7月30日。

 代官山で降りて、午後6時10分くらいには代官山プラザというところに着く。地下の駐車場の入り口みたいなところを下ったところで、イスが50くらいは並んでいて、真ん中で映像の担当がいろいろと調整をしていて、そして、川俣氏は一人で何かメモをしている。全部、黒の格好で靴まで黒い。誰かしら知人があいさつをすると丁寧に頭を下げている。この人の高い信頼感って何だろう?と思ったけれど、そうやって生きてきた、という事なのだろうけど、こういう業界では珍しいことなのかもしれない。

 

 もうすぐ開始予定の6時30分なのに、10人足らずの観客しかいない。6時30分を過ぎても変わらない。だけど、そんな状況でも何か気持ちに変化があるようにも見えず、川俣氏は淡々としていて、1人だけ通りがかりというか当日券で入ってきた若い男性がいて、その中で、キートン山田氏も揃って、その中で名刺交換をしている人もいるから、ホントに関係者だけなのかもしれない。

 

 午後6時40分過ぎになって、遅れてすみません、という言葉とともにトークショーが始まった。昨日も、同じ場所でやって、ぼそぼそと聞き取りにくいという指摘がありまして、すみません。

 

 川俣氏のカフェトークは69回目になり、3年くらいやっていて、という事を知り、聞いている私はそんなにやっていて、まだ来たことがなかったと自分のせいなのに勝手に残念な気持ちになった。

 

 キートン山田氏も、炭坑の街で生まれ、同じ市内のような感じだけれど、川俣氏とはちょっと違う地域のようで、だけど、今はゴーストタウンのようになり、電車もないし、バスしかないのし、なんだか帰りたくはない。でも、一番にぎやかな頃を知っている。炭坑の街のことしか知らなかった。だから、東京へ来て、あまりに違ってとまどった。

 

 川俣氏は高校1年生の頃に閉山になった。

 だけど、炭坑のことしか知らなかった。貧富の差もない場所で。

 

 キートン氏は、雪も黒い。川も黒い。考えたら、ひどいところだった。垂れ流しなんだから。と言い、川俣氏は、人も多い。とつなぐと、キートン氏はさらに話す。

 

 新宿が眠らない街、みたいな言い方をされているけど、炭坑も眠らない街だった。働く人も3交代だし、夜中も商店街はやっているし、スターもやってきた。一番大きい街だと思っていた。テレビは誰かの家で正座して見ていたけど、川俣氏の時代にはテレビはあったというから、そういう時代の変化の時だったのだろう。ただ、家賃はタダだったし、光熱費もタダ。それがキートン氏は当たり前だと思っていた。空き地があって、そこで野菜を作っていたから、買ったこともなかった。東京へ来て、ぜんぜん違っていた。コンプレックスはあった。言葉もそうだけど、でも、サラリーマンやっていて退屈だったので、これは続かないと思い、劇団へ応募した。

 

 川俣氏は炭坑の音だと何が聞こえるとか、そういう身体的な記憶の話になった。

 キートン氏は、長屋だから、隣の家の音が全部聞こえた。ただ、毎日だから、聞こえているけど、聞こえていない音になる。それから雪の音。

 

 川俣氏は、高校の時にD51で通学していた、というと、みんなに驚かれるけれど、その時はトンネルに入る時は窓を閉めるとか、煙のにおいや石炭のにおいを憶えている、という。ふと、思い出すことがある。

 

 キートン氏のちびまる子ちゃんのナレーションの話もはさまれた。

 44歳の頃、ひまだった。企業だったら倒産みたいなものだった。ちびまる子ちゃんのナレーションが1ヶ月前になっても決まらない。作家がこだわっていた。でも、後輩にいったん決まっていたのに、スケジュールが合わなくてダメになった。そこで、キートンは?という事になり、そのマンガも読んだ事なくて、急に呼ばれて、いろいろ説明されたけど知らないから、とにかく見せてくれ、という事で、それは当時、失業していて帰って内職もしないといけない、みたいな事情もあったから、でも、声を当時、アメリカにいた、さくらももこに送ったら、これだ、という事になり、それで人生が変わった。

 今は演出も多くなった。ほんとなら定年の後のトシなのに。

 

 話は、三笠という地元の話へ。

 

 地元の活性化のために何かをやってくれ、という話になり、レクチャーを北海道大学でやったけれど、でも、地元ならでは、はやりたくないような、という事を川俣が言えば、キートンは、劇団を呼ぼう、という自治体みたいなところはけっこうあるけど、臆病になっちゃって、老舗の劇団を呼んだりしているけど、難しくてよく分らないものをやっていて、うちは喜劇だけど、なんだか軽く見られてて、という話になると、川俣は、炭坑の街ばかりを言われてもなんか違うと思えてしまう、という話題につなげる。

 

 そこに育った人にとっては、炭鉱の町の見られ方に、微妙な違和感がずっとあるようだ。それは、私は知らないけれど、炭坑をテーマにしたドラマや映画などが一時期すごく多くやっていて、でも、それはある意味で作る側の怠慢だったのではないか、と二人の話を聞いていると思って来る。怠慢が言い過ぎならば、そこにドラマがあると思いすぎている安直さ、というか。

 

 炭坑の街を自分の生まれたところとして普段の生活の中のものとして語ると、川俣は、昔は映画館もあって、見せ物小屋もあって、盆踊りも街ごとにやぐらもあって、という豊かさのある一面を話すと、キートンは東京へ来たのは、札幌という選択肢もあったけど、思い切り離れたかったから、外国へ行くような気持ちだったという言い方をすれば、川俣は、今、生まれ故郷は何もなくなってしまった、という言葉になる。だから、思い入れもない、という言い方にもなる。ふるさと、みたいな気持ちもない。

 

 キートンは、炭坑の街にいたといっても、父親が体が弱く、炭坑の会社にいたりいなかったりして、いない時は、家の中に細かい雪がつもるような家にいて、戻るとちゃんとした家になる、という事があって、だから住むところには執着して、今は伊東に住んでいる、という話になる。

 それをつないで、川俣の話は微妙に前へ、奥へ進んでいくようだった。

 

 ただ、今は身体的な記憶が気になっている。

 煙のにおいとか、音とか、石炭と雪とのコントラストとか。それを何というか、ノスタルジーなのか、でも、今も建物が残っていたりするけど、それより体の記憶というか、イメージとして残っているものの方が強い。

 

 キートンがさらに話をつなげた。

 炭坑では1000メートルもぐっている。それも手堀りで。それはその時は当たり前の事だったけれど、やっぱり凄い事だった。その頃の人はいなくなっている。

 

 川俣も、石炭そのものを知らなくなっている人が増えている。ちっちゃくして売ったら、売れたりした。キートンは石炭の固まりを買って、まきのストーブがあるから冬に入れたら、すごく燃えた。こんなによく燃えたのか、と思うくらい燃えた。

 とにかく北海道は雪が大変だった。

 雪がつもらないように石炭の粉をまいたりして、それで、その断片が黒と白のだんだんになって、ケーキを見ると思い出す。

 川俣も、石炭をまくから、どろどろになったりする、という。

 

 キートンは、さらに、汚い街だった。1年の半分は長靴だった。それで、おじさん達はお金を持っていたけど、ためた、という人は聞かなかった。たぶん、全部使っちゃったんだろう、と思う。銀行もなかったし、明日死ぬかもしれない、と思うと、飲んで遊んで、だからお金を残した人がいない。だけど、家賃や光熱費がタダだから、そこを出ていった人達の方が苦しんでいたかもしれない。

 

 貧乏だという意識もなく、汚いという意識もなかった。高校の頃、他の街の生徒から炭坑の街はこわい、と言われた。

 と川俣は言うと、それは最初は犯罪者が働いていたりしたから、という言い方をキートンがつないだ。

 

 今は街でなく、その時の人達とのつながりだけかも、これからは、コールマインの続きを三笠で出来るのか、炭坑にこだわらず、身体的な記憶からつながっていくもの。場所でなく、人とのつながりに興味を持っている、と川俣は続けた。

 

 だから、というわけではないけれど、とキートン氏は三笠に呼ばれても、炭坑のことはやらないかも。現在を伝えることの方が刺激あるかも、というと、川俣は、少しためらいながら慎重に話をつなげた。

 

 田川で春と秋に劇団を呼んだりした。

 それで、炭坑の事をやったけど、正直いって見ていられなかった。 

 ちゃちだった。知っている人ならやらない事で、恥ずかしくなった。あんな風ではなかった、と思ってしまった。こだわる事によって浮いてしまう。平和とか、環境とか、ストレートにやると恥ずかしくなるのと似ているのかもしれない。もう少しひねりというか、気をつけないと偽善に見えてしまう。今、昔の炭坑の事も知っている人が見ている前で舞台で炭坑の事をやっている。リアリティーが感じられない。でも、超満員ではあって、だけど、以前の炭坑を知っている人の前で炭坑の事を語らない方がいい、と思った。

 過去の事だから、炭坑遺産をめぐるツアーもある。観光資源として使うのはいいと思う。ただ、それだけで観光地化するのには無理がある、と川俣は話す。

 

 キートンも、炭坑の事はやりたくない。戦争の事もやりたくない。今さらいいんじゃないか、と思う。勝手にやりたい。喜劇はどこででも出来る。演じるのは難しい。人によってはどうでもいい事で、そこにいくまでにどうするか。

 

 川俣は映画も見た。半分は炭坑の街だから、料金も安かった。

 キートン氏は、東京よりも栄えているのでは、と思っていたらしい。お金があるから、東京のスターも来ていたし、ここが中心みたいな意識があったようだ。

 

 

 トークが一応終わって質問のコーナーになった。

 

 団塊世代くらいに見える男性が、会社によって、その撤退の方法はちがったのか?みたいな質問をした。急に「赤旗の記憶はありますか?」などと聞いていていた。あまりいい感じはしなかった。

 

 川俣氏が答えた。

 炭坑によって会社の系列は確かに違った。

 でも、大きくても小さくても、そんなに変わらない。

 でも、閉山になってからの雇用のケアが違ってはきていた。あれだけ大勢のケアは出来ない。でも、政治的な闘争にはならなかった。北海道は、けっこうコントロールしていたと思う。組合も含めて。どうやってつぶしていくか?そういう撤退のイメージが大企業の戦略として持っていた気がする。それは、九州の事を見ていたせいもあるはず。今も、土地が誰のものか分らないような場所があったりする。三井か、田川か、個人か、そういうずさんな事があって、もめたりしている。

 北海道は、きわめて近代的な経営をしていて、その中で生活をしてきた。炭坑の街というのも人工的な感じがする。病院もあって、いろいろな施設もあった。そういういい面もあった。

 

 キートン氏もつなげる。

 たとえばラジオを誰かが買ったら、みんなで買った。自転車もテレビも、そうだった。みんなで競争するように買った。北海道で流行ったものは、東京でもOK、という言われ方をされる時代だった。今でもそういうところはあるかもしれない。

 

 川俣氏からは、はさらに話題が出る。

 炭坑の街は、いろいろなところから人が来ていて、隣は沖縄の人だったりすると、いろいろな事が全然違っていて。

 キートン氏も、さらにつなげる。

 にしんも箱で買えた。みんながそうだった。かずのこが平気で入っていたりもした。炭坑の闘争は記憶にない。

 

 

 次の質問者が立つ。女性。なげる、という言葉は北海道から来た方言ではないか?

 

 キートン氏が答える。

 標準語に矯正されてしまう事に今でも抵抗がある。いろいろな土地の言葉があるのに、劇になると共通語になる事にハラがたつ。

 方言も、いろいろあるのに今だとみんな関西弁になってしまう。ただ、今はなげる、という言葉を北海道でも使わなくなった、ひさしぶりに聞きました。

 

 というような話で、最後にはちびまる子ちゃんのナレーション風の言葉を、途中でもキートン氏は話してくれたのに、さっき質問した男性のリクエストで、また話してくれた。午後8時15分には終了した。

 

 今、炭坑をテーマに美術感で展覧会をやるなんて、なんだか凄いと思い、その事をいろいろと聞きたかったけれど、キートン氏に気を使う川俣氏を見て、なんだか聞きそびれ、また明日も来たいとも思ったけれど、4日連続での外出はまだ体力的に無理だと思って、やっぱりやめる事にした。帰りは自由が丘の駅の構内のスープストックトウキョウで食事をした。よかった。今度は、機会があったら、またカフェトークに行きたい、と思った。

 

 

(2009年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

「Café Talk69」(川俣正

http://www.cafetalk.net/main.html

 

www.amazon.co.jp