アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「和田守弘展― 走り去った美術家の航跡1967ー2006。2009.1.13~25。神奈川県民ホールギャラリー。

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「和田守弘展― 走り去った美術家の航跡1967ー2006。2009.1.13~25。神奈川県民ホールギャラリー。

2009年1月25日。

 高校の同級生からのメールで、高校の時の美術の教師が亡くなったのを知った。それで、展覧会も神奈川県民ホールでやるのを知り、一人で行くことにした。

 

 高校の時、音楽か美術を選択しなくてはいけなくて、どちらもやりたくなくて、美術は出来ないと残されたりするため、音楽をとることにしたから、美術の教師とはまったく縁がなく、受験に関係ない科目の時は、受験に関係ある勉強をするような学校だったから、他の教師はあきらめるのだろうけど、美術のその教師はあきらめず、かなり厳しく(今、考えればごく当たり前のことだったけど)普通に授業をやろうとしていて、それが美術をとった人間からは不評だった。勝手な話だけど、私にとっても美術のことは、ひたすら遠いことというより、関係のないことだった。美術の教師は、そういう学校ではやりにくかっただろう、とも思うが、その本当の気持ちは分からなかった。マッシュルームカットにジーパン。その格好を遠くから見ていただけだった。

 

 高校のPTAの役員を母親が務めた時、その会報を出す時に、表紙をその美術の教師に頼んだ、という話を聞いた。その時に、やっぱり難しいところがあって、という前置きがあったような気もするが、絵を描いてくれたのだけど、表紙の紙がいつもと同じのではなく、指定してきた、という。それも、いつもよりも予算がかかるものを、ということらしく、でも、その出来たものは、ピカピカする素材の紙の上に、波のような線が描いてあるだけのようにも見えたが、確かに、この紙じゃないとダメだ。と美術に興味がない私でさえ、思った。

 

 その記憶があったから、展覧会にも行こうと思えた。

 県民ホールで、約2週間。

 亡くなったのが、私自身の母親が亡くなったのと同じ、約2年前のことだとも知った。そして、入り口を入るとけっこう人がいて、受付に中年の女性が二人並んでいて、走り去った美術家の軌跡 1967—2006、というタイトルと、私が知らない顔をした、わりと最近の顔が写真があった。国内では、かなり早くからビデオアートに取り組んでいて、先駆者の一人である事も、この展覧会を観に来なければ、知らないままだったと思う。

 

 いつもは読まない年譜みたいなものを読んだ。

 ここ10年くらい、うつ病になったり、アルコール依存症になったりという文字を見つけた。大変な時間だったと想像するしかない。

 

 階段を降りて、その部屋には立体もあったし、絵もあったし、組み合わされたものもあった。その中には、あの波のような線もあちこちにあった。あれは、生き生きしていたんだ、印象が強いものだったんだ、と改めて思い、そして、1990年代の後半から、また制作する絵が多くなっていたようで、そして、その絵は色が多くなって、線が太いものになって、いいなあ、と思えた。あの線がなつかしかった。

 

そして、ビデオ作品があって、本人が対談している映像もあって、その理論的な事を話す姿や言葉の選び方も含めて、ものすごく真面目な人なんだ、と思った。高校生の時には、分かっていないことだった。

 59歳で亡くなったと知った。

 志なかば、という言葉があちこちにあった。

 この展覧会も、本人が亡くなったあと、奥さんが、今年は展覧会をやる、という目標を手帳に見つけて、そして実現したと知った。同時に作品集も出版され、その作品集を2000円で買った。

 

 けっこう広い会場に、膨大といって数の作品が並び、高校の教師の一人として仕事をしながら、こんなに作品を作っていたんだ、というのは、驚きというより、違う世界を見せてもらったような気にさえなった。

 

 時間の流れは、いろんな流れ方をしている。

 私が、この展覧会を見るなんて、不思議ではあった。

 カタログの最後が、和田弥生、と奥さんの文章でしめくくられている。

「少しでも和田守弘の美術に対する熱い思いが伝わりますように」

 確かに、伝わって来たんだ、とも思った。時間を越えて、なにかが伝わって来たんだろう、と思えた。

 

 

(2009年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

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