この記録は、確かに1996年に書いたのだけど、本当に、この年に見たのか、ワタリウムに行ったのか、後になってみると、自分でも、定かでなくなっている。
テレビを見ていたら、気になっていた写真家がしゃべっていた。
昔の写真家のことを話していた。
そこにあるものを、そのまま撮らせてもらう。そこにいる人をそのまま撮る。
アラーキーといわれるスキャンダルなことばかりがクローズアップされる荒木経惟だった。ただ、とても本当のことを言っているような気がした。
写真家の荒木が話していたのは、アウグスト・ザンダーについてだった。当然のようにワタリウム美術館へ行った。
様々な人、いろいろな職業を写してあった。死体まで、きちんと真直ぐに正面から撮影してあると感じた。ここまでは普通は出来ないだろうと思いながら、それでも不思議な上品さがあると見えた。それは、自分が自分が、というのが凄く薄いから。と理由まで気持ちの中に出てきた。
その後、ザンダーがナチスに協力のためにこうした様々な人・様々な人種・様々な職業を撮影したとも聞いた。でも、あの写真は凄いというのは、変わらない。
そして、荒木も、自分に関係ないものは撮れない。そんな当たり前のこともいっていたように思う。そんな基本的なことも、これからもっと大事になってくるように思った。
ただ、自分が書いた、この記録では、確かに、1996年にアウグスト・ザンダーを見たはずだったのに、ワタリウム美術館の過去の展覧会を見たら、1996年には、「ロドチェンコの実験室展」「イサム・ノグチ/ ルイス・カーン展」「The Fallen Angels Photo」「ルドルフ・シュタイナー展」とあって、このうち「The Fallen Angels Photo」で「アウグスト・ザンダー」を見たのかもしれないけれど、その画像は、ワタリウムのサイトでも見られなかった。
本当に見たのかどうか、自分でも怪しくなっているけれど、それでも、ザンダーの写真を見て、ただ写そうとしていることで、被写体が中心になり、印象が強くなっているような気持ちになったことは覚えている。だから、ザンダーの写真を見たのは間違いないと思うけれど、もしかしたら、ワタリウムでなくて、別の場所で見たのかもしれない。
そのくらいあいまいな記憶になっている。
その時のチラシなども、保存していなくて、ますます分からなくなっている。