アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「横尾忠則 森羅万象」。2002.8.10~10.27。東京都現代美術館。

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横尾忠則 森羅万象」。2002.8.10~10.27。東京都現代美術館

2002年9月28日。

 

 つい数年前までは、横尾忠則という人は、すごくて、その作品になにか感じるところはあっても、それは、大御所であり、それも、自分よりも上の世代のスターで、その時を知らない人間にとっては、その凄さが今一つピンとこない人。という風に見ていた。そして、それは鎌倉で、それまでの作品をまとめて見て、それよりも凄い、というように思ってはいたのだけれど、だけど、やっぱり、その作品は、自分へダイレクトに働きかけてくるものとは思えなかった。もっと、若い世代のものの方がリアルに感じるような気がしていた。

 

 だけど、ここ1年くらいのY字路のシリーズを見た時に、すごくピンと来た。その道路の感じが、凄く気になっていた昔の自分を思い出し、ああ自分にも分かる、みたいな気持ちになっていた。その作品のシリーズは、戦略的なものではなく、描きたいと思ったから描いたらしい。60代半ばを超えて、まだ、新しいと思えるものを描いてくるなんて、凄いと、遅ればせながら、はじめて思った。

 

 だから、東京都現代美術館で個展を、それもかなり大規模な個展をやると知ってから、楽しみだった。

 

 見た。たくさんあった。それは、個々の印象は、後になってみると、ほとんど残っていない。だけど、不思議な生々しさが、やっぱりあったような気がした。

 

 1960年代から、そうやってきている。

 画家宣言も、1981年というから、横尾本人は45歳の頃だ。

 

 こんな年齢で、などと前は思っていたのだが、後になって(2004年)糸井重里の「インターネット的」(PHP新書)を読んだら、「ほぼ日」を始めた時は、そんな歳だった。それも、クリエイティブに生きてきた人達の晩年のことを知るにつれ、そういう人達は、自分にもそれが迫ってきていることを、おそらくリアルに分かる歳なのだろう。このままじゃ、寂しいことになる。どうすればいいのか?といったことを、おそらく、そんなことは本人にしか分からない危機感だったかもしれないけれど、確か糸井氏は、その頃はゲームも売れて、金銭的にも名誉というか知名度的にも外からは何の問題もないはずの頃だろうから、だけど、そういう危機感を敏感に感じとってしまうのは、才能というか、何か、そういうものの一つだろう。そして、「ほぼ日」を始めて、それは結果として、いや、結果としてという評価そのものを拒否というか、それは違うよ、と言いそうな方法だろうけど、でも、寂しくない。という方向になったというか、先駆的な大成功をした。

 

 

 もしかしたら、横尾忠則も、そんな危機感を感じていたのかもしれない。それも、切羽詰まるようにリアルに。

 

 それが画家宣言をさせたような気もするが、本人は、いや、そんなはっきりとしたことでなく、ピカソ展を見てね⋯うんぬんという話をするだけのような気もするが、というより、過去のことにあまり興味がなさそうに見えるのだが、だけど、そんなこんなを考えると、実は45歳というのは、分かりにくいが、もし現役でばりばりにやっているのならば、けっこう重要な年令なのかもしれない。ここで、いい意味で、また変化しなかったら、それから先は、先細りになるとか⋯。これは、寿命が伸びた今だからこそ意味のある分岐点になるのかもしれない。

 

 などと、横尾忠則展から、話は遠く離れてしまった。

 だけど、その個展から2年後の2004年には、そのY字路をテーマに、「ほぼ日」で横尾とタモリが話しあうというのが始まっている。

 

 

(2002年の時の記録に、2004年に加筆しました)。

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