2001年8月25日。
東急の出してる薄い雑誌のようなものアートの紹介のコーナーがあって、そこにも載っていて、券が当たるというので締めきりぎりぎりにハガキを出した。間に合えば、当たると思った。その通りになった。
妻と出掛けた。そのタイトルは魅力的だった。
でも、何だか会場に着いて、がっかりした。
そこに、その作品の考え方が分って、初めて面白さが分かるような種類のものが並んでいるにも関わらず、その作品の前の文章は、自分の理解力の問題があるにしても、難解すぎた。
たとえば、何かしら文字の成り立ちを人工的に再現しようとしているのか分からないけど、壁一面に何か暗号のようなものが並べてあって、でもそれはとても退屈だったし、そこにつけられた文章がこういったものだった。
「文字は一次元の線状性を原理とするが、確率的連鎖の線状性だけでは成り立たない。文字は遥かに明確かつ原理的な線、即ち筆記線の線状性によって実際上合成されている。ただ、筆記線の選択に確率的空間が存するわけでもない。さしあたって、文字には線の癒着を回避するための空間的配分が用意されている(後は略)」。
ここには岡本太郎の作品もあったが、この解説は、伝えることを拒否する文章という作品のようだった。
中には、ここの建物のどこからか採取したという音を聞かせてくれる作品や、物を近くに置いたりするだけで微妙に聞こえ方が変わってくる、音が点のように移動していく作品は、その移動のテンポが変わったりもするので、妻は喜んでいたし、でもこれだって解説の文章を読んだ時はすぐにでも立ち去りたかったものがあった。しばらく注意深くたたずんでいて、初めて面白さがわかった。
他にも、防音の素材を使った作品では、確かに音の流れが微妙に変わったのが分って聴覚がなるほどと感じた作品があったし、この建物のどこからかいろいろな物を持ってきた作品では、この会場を出た後でも楽しめたのだが、この展覧会で現代の美術に初めて接したら、嫌になってしまうに違いなかった。
どう伝えるか?
それが、ものすごく大事なことなんだ。というのは、逆説的には、よく分った。
同時に、同じ建物の中で、わりと若くして亡くなった「ガロ」系のマンガ家が2人紹介されていて、あ、このマンガ見た記憶がある、というのもあった。若い男女。恋人関係。男は小型飛行機のパイロット。ある日、行方不明。あきらめきれない女。気晴らしに行ったエジプト。新しく発見された遺跡。その壁画は、彼だった。時間や空間を越えて、生きていた。ということを彼女だけが確信して終る。もちろん読者もそう思うが。それは、昔どこかで読んだ。ヤングジャンプだったのが分った。それは、つりたくにこという漫画家。ガロで10代でデビューしたが、病気もあって作品が載らなくなり、再起をかけて名前を隠して応募して、佳作をとった作品らしい。これは、妙に憶えていた。不思議な気持ちだった。30代で亡くなったそうだ。
帰りに、迷いながら妻が道を聞いてくれたおかげで、武蔵小杉のラーメン二郎に行った。初めての味。10年以上前、食通の知人が、やたらと名前をあげていたのもうなずける。また行こうと思えた。それにしても、道の反対側で、それも裏側に店があるから、確かに道を聞かなかったら、分からないまま帰ったかもしれない。
ラーメンを食べて、この夏一番たくさんの汗をかいたような気がした。
夏は終るんだな。
そんな気持ちになった。
夏が嫌いなのに、どうして、そういう時だけ、変に寂しい気持ちになるんだろう。
(2001年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。