2016年7月4日。
このシリーズも何回目かになるけど、ここまでは、おそらく欠かさず見ているはずで、こういうチャレンジの要素が含まれたものは、やはり好きではあるけど、ただ完成度みたいなものが感じられなかったり、ちょっと無理やり集めた、という感じもしたりで、今振り返ると、期待がすごく高いわりには、そこまでのグループ展ではなかったりして、振り返れば、このシリーズで初めて知って、その後、すごくいい作品を作り続けて、自分も名前を覚えるようになった、というようなアーティストはいないような気もするが、だけど、それは単純に知らないだけかもしれない。
『「私」とは誰だあろう。私の身体はどのように歴史や他者とつながっているのだろう。』
美術館を入ると、毛利悠子の作品。いろいろな日常品を使って、それを組み合わせてつなぎあわせて、ちょっと不可思議な動きをする、という作品。少し見て、少しあきた気持ちになるのは、どこかで見たような気がするし、もしかしたら自分の使っているものを使用しているのかもしれないが、などと思って、歩いて行く。
最初の部屋に、この展覧会の告知でよく見た片山真理の作品が並んでいる。小さいころに両足切断という事態に直面した作者が、美大に入り、写真を学び、自己像を含めて撮影し、今の自分の状態も含めて作品にしている。この片山しかできない表現であるのは間違いないし、当事者性といったことも考えたり、だけど、当たり前だけど、片山にとっては、自画像でしかないのに、やはり見ていて、違うものを見ている感じもしていて、ただ、自分に関係している事物も一緒にとっていて、それが年月もへているものもあるようで、そこにいろいろな気持ちの蓄積というか、経過みたいなものも映っているように思えて、やはり印象は強かった。
他には、映像作品が多い。動画を気軽に撮影できるようになったせいかもしれないし、動画でないと表現できないものもあるし、人の表情の変化とか、時間の流れとか、だけど、ただゆるくしか感じられないような場合もあるのは、映っているものを加工しないほうがリアル、というような思い込みもないだろうか。などと思っていたが、さわひらきは、加工してあって、だけど、それがドローイングのような生々しさの残った加工方法だから、(高度かもしれないけど、手作り感みたいなものを残していることによって)見ていられるし、美しいと思う瞬間も多かったけれど、あとは、あまり覚えていない。絶滅しそうな牛の関する映像の志村信裕や、自分の祖母2人に、それぞれのことを聞いたインタビューを行っている百瀬文の作品は、その表情や、その関係性が見えたような気がして、映像ならではと思えて面白かった。
松川朋奈は、取材をして描く、という行為は興味深かったものの、その作品が、夜を描いた小説の挿絵みたいに見えてしまい、もっと違うようにも描けたのでは、と思ったりもしたが、でも、実際は、そういう平凡さになってしまうのかな、ともあとで思い返した。
野村和弘のボタンを投げて、小さな場所に乗せるゲームは思った以上に楽しかったし、同性カップルに遺伝子操作によって本当の二人の子どもが出来たら、というような作品は興味深かったし、見終わって、アートということで、たとえば商業雑誌では企画も通らないようなことが、こうやって人の目に触れるような作品になることに、可能性も感じたりもして、ありがたい気持ちにもなったが、映像が多いと、その見ている時間の長さは長くなるのに、印象は薄くなる感じがした。