アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「大洲大作 Logistics/Rotations」。2022.9.30~10.10。蒲田駅東口周辺。

「大洲大作 Logistics/Rotations」。2022.9.30~10.10。蒲田駅東口周辺。

 

 駅のホームの隅っこにひっそりとあるスタンドに、そのチラシはあった。

 地元のアート企画。

 かなり前から、そこにあったはずなのに、気がつかなかった。

 

 それは、地元・大田区の「アート・プロジェクト」の一環であるようだけど、会期は2020年9月30日から、10月10日。それほど長くないし、しかも駅周辺で、18時30分から21時、という夜だけの展示になる。

 

www.oozu.info

 

 私にとっては失礼ながら名前を知らないアーティストだったのだけど、その経歴を見ると、もしかしたら、作者を知らないまま作品を見ているのかもしれず、どちらにしても、なんだか気になった。

 

 こういう時は、おそらくはその作品の意味を知った方が、興味を深められるだろうし、面白いはずなので、「ガイドツアー」に申し込もうと思ったが、駅にあったチラシの締め切りを過ぎてしまっていたので、いったんはあきらめ、だけど、一応と思って大田区のサイトを見たら、その締め切り期間は伸びていた。

 

 まだ定員に達していないのだと思って、妻と相談して、10月10日の19時からの回のツアーに申し込んで、行けることになった。

 

 よかった。

 

 

 チラシには、こうした文章があった。

 

「蒲田から羽田へ、海の向こうへと続いた羽田航空基地側線。 

 今ふたたび、はてなき廻転を街に描き出す試み     大洲大作」

 

 その路線は、現在のJR蒲田駅と、京浜急行蒲田駅もつなげていたらしく、そのことで思い出すのは、これから先の近未来に「蒲蒲線」として路線を造る、という計画の話だった。

 

 これまで「蒲蒲線」という名前の響きで、それこそ面白おかしく取り上げられたこともあったのだけど、その時も、その「羽田航空基地側線」の話は出てきた記憶がなかった。

 

 大田区の住民で、蒲田はそれなりに地元といってもいい地域なのに、全く知らない歴史だった。

 

2022年10月10日

 

 10月10日の当日は、午後7時からなので、それに合わせて妻と相談をして、早めに夕食を食べて、出かける。

 

 秋になって、午後6時過ぎでも、完全に日は沈み、暗くなっていた。

 夜に出かけこと自体が、もしかしたら、何年かぶりかもしれない。

 それだけで、ちょっと気持ちが違う。

 電車に乗って、駅に着く。

 

 待ち合わせの場所は駅のそばのコンビニの前だった。

 もしかしたら、誰もいないかもしれない、と思ってくらいだったのだけど、ボードを持ったスタッフらしき女性がいて、その前にもすでに何人か人がいる。

 自分たちも、そこに行って、名前を名乗る。

 もう少しお待ちください、と笑顔で言われ、待っていたら、その歩道のあたりでは、熱心にティッシュを配る一団がいる。すごく力強く歩く、現場の責任者らしき男性が、それぞれの空いているカゴにティッシュを補充していく。

 その人たちが業務を終わる頃に、今日のガイドツアーの主役であるアーティスト本人が現れる。

 

 きびきびした声で、そこからツアーが始まる。

 

 すぐそばの駅前のビルに映像が映し出されている。

 何かが回っている。それは、工場の旋盤だった。

 

 この地域の歴史は、関東大震災では比較的被害が少なかったため、工業地域として発展したが、戦争では空襲をうけ、8割が焼け野原となり、戦後の不況のあとに朝鮮戦争が起こり、その特需によって、V字回復になった。

 

 そんな話をアーティストがしてくれたし、ハンドアウトにも書かれていた。

 

 「大田区の工業は精密機械金属加工、またそれぞれにユニークで高度な技術を誇る町工場の集積に特徴付けられている。連携し、技術を磨く小さな工場の屋根の下、今日も旋盤は廻る」(ハンドアウトより)

 次は、そこから道路を渡り、今は大田区民ホールアプリコがあるような場所に歩いていく。

 ちょっとした集団として、移動し、歩道で立ち止まり、道路の向こうのビルの壁に映された映像を見ながら、大洲氏は、ここでも話をしてくれる。

 

 ここには、戦後、羽田空港まで続く線路があった。そのことを改めて聞くと、それを全く知らなかったことと、これまでも何度も通っていたこの場所に、線路が通っていて、それはアメリカのためのもので、しかも、その歴史がほぼ知られていない。そうしたさまざまな要素で、少し混乱もした。

 

 そんなことがあった。しかも、まったく知られていないし、知らない、というショックに近い気持ちになった。

「敗戦まもない1945年9月、進駐軍は兵員輸送の基地として羽田飛行場を接収し、(中略)米軍第3鉄道輸送司令部(MRS)は国鉄(現JR)に対して蒲田駅の貨物側線から現 京急蒲田駅を経て羽田航空基地に至る線路の敷設を指示した。

 1948年7月までに輸送された資材は670万トン。翌年から工事資材は減少し、航空燃料は戦闘機など航空関連の輸送や兵員の輸送が取って代わられた。1950年には朝鮮戦争への補給・兵站に供され、やがて1952年の講和条約発効を前に線路は返還されて役目を終える」(ハンドアウトより)。

 

 二つ目の映像は、列車の輸送を模型によって再現され、さらに、三つ目の映像作品は、米軍のカメラマンによって撮影された映像を見ながら、そうしたことが語られた。

 

 これほどのことがありながらも、ほとんど資料もなく、映像もなく、その時にも、当然、住んでいる人は知っていたはずだけど、撮影されることもほぼなく、日常的な光景だったので、あまり語られることもないまま、時間が経ったのではないか。

 

 そんな話にもなったのだけど、戦争に負けたり、占領されるというのは、ものすごく暴力的で、そういうことなんだ、というようなことを、本当にわずかだけど、肌で感じたような気がした。

 こうしたことを映像として見せてくれた作品を制作してくれたのは、なんだかすごいと思ったし、ありがたいような気持ちにもなった。

 今、この目の前にある道路に、そんなむき出しの歴史があったのかと思った。

 そして、それを全く知らなかったのは、自分の無知だけではなくて、知らされていないということも、ちょっと怖いような気がした。

 

 映像作品が、街の中で投影され、こうしていろいろな人と見て、話も聞いて、この時間の中だから、なんだかいろいろなことを感じて、考えることができた。

 

 

 

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