アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

『とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう』。2022.11.18~27。新宿歌舞伎町。

『とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう』。2022.11.18~27。
新宿歌舞伎町。

 

2022年11月18日。

『とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう』(ホームページ)

https://toutoutarari.com

 

 地下鉄の駅を降りて、長い地下の通路を歩いて、表へ出たら、花園神社がある。そのそばにはゴールデン街があり、歌舞伎町もある。いろいろな意味で、個人が語りきれないほど、重力が重い場所のように思う。

 

 本当に久しぶりに新宿に来たから、人がそれほど歩いていなくても熱量は高く、そして、新宿眼科画廊には行ったことがあるから、その少し先だと把握していたことで、勝手な安心感を得ようとしていた。

 

 だけど、そばまで来ているはずなのに、分からない。確かにワシントンプラザに来たのに、お店しかない。階段を降りて、隣のマンションの入り口から建物に入って、そこの管理人さんに聞いていたら、掃除のスタッフの女性に能舞台の場所を案内してもらいながら、何やっているの?何を売っているの?と繰り返し聞かれ、アートの展覧会です。と答えても、物はなに?と尋ねられ、物はなくて、展示なんですが、と言えるだけだった。

 

 よく見たら、外側に大きい「能舞台」という看板があったのに気がつかなかった。

 

●第1会場

 入り口前の階段で、自分の足のサイズに合わせて、足袋を選ぶ。

 本当ならば、裸足で履いた方がいいのだけど、入り口に入って、長椅子に座って、靴下を履いたまま足を入れた。だから、指のところが余った感じになってしまう。

 

 中は暗く、そして、どう入っていいのか分からなかったけれど、映像があって、そして、顕微鏡があって、スクリーンで映像作品が流れている。しばらく座って、見る。

 

それから廊下を歩いて、ドアを開けると、そこが能舞台だった。

このために足袋を履いている。

初めて、能舞台という場所に立つ。

 

そこは、振動スピーカーを使って、舞台自体をスピーカーのようにしていて、その振動が伝わるし、能での足拍子の再現のようにも思え、新鮮だった。

 

その舞台を降りると、座布団が敷いてあって、その前に映像があったり、暖炉のようなものがあったり、壁に文章が書かれてあったり、大きいQRコードがあったり、何があるのか、分からず、どこから考えていいのか。なんだか途方に暮れる気持ちになった。

 

いわゆる展覧会のようなところで、こんな気持ちになるのは初めてだった。

それは、「新しい」ということなのかもしれない。

 

●説明

 ただ、あまりにも暗中模索な感じで、このままだと何も感じないで、帰ってしまうかもと思い、たまたま、そばに、キュレーターの渡辺志桜里氏がいたので、聞いてもいいですか?と声をかけたら、話をしてくれた。

 

 自分にとって、とっかかりがなくて、といったことを話したら、、渡辺氏は、何か統一的なテーマがあるというのはでなくて、「翁」という大きすぎるものがあって、といった話から始まって、こちらの無知な質問に対しても丁寧に答えてくれるうちに、少しぼんやりとわかってきた。

 

 自分の細胞を、向かいのラブホテルの一室で培養しているアーティストは、新宿の街中のビジョンにその映像を映したりしているらしい。それは自分の細胞というプライバシーを、公共に見せるということをしている。

 

他にも、いろいろな話をしているうちに、少しだけわかった気がしたのは、「翁」という概念は、昔から存在したのだけど、それは、現代の視点から考えても「新しく」しかも、「巨大」らしい。

 

 だから、それは命とか、個人とか、自然とか、そういったことをアーティストがそれぞれ考えるから、展覧会としても、統一感があるわけでもなく、複雑な感じがして、鑑賞者としては、どこに手をかけたらいいのか分からなくなる。そんな状態なのはわかった。

 

 こんな乱暴な話に付き合ってくれて、それは、とてもありがたいことだった。

 

●第2会場

 私あ、荷物を手に持っていて、それがかさばって、ガサガサしていて、だから、見かねて、会場のスタッフがこちらに置くのはどうですか?と言ってもらったり、親切にしてもらった感じがあったけれど、話を聞いた後だと、それぞれのアーティストが、それぞれの方法で、何かをしようとしているのは、分かった気がした。だけど、それは分かりやすさとは関係がないのは、分かったように思う。

 

 こんなふうに混乱した表現になるくらいだけど、最初は、ただつるんとしたものを触っていたのが、少し手にひっかかるものができてきたような感触はあった。

 

 そこから、また次の会場に歩く。

 

 第2会場は、さっきの能舞台の足拍子が続いているように思えた。

 それから、さらに、普段は行かないような場所での展示があって、その風景も含めて、作品のようだったし、そこに設置されてあった作品が、複雑な意味を投げかけてくれて、日常的でないことを、考えようとすることはできた。それは、そこにも現場のスタッフの方がいて、こちらの素朴な疑問に丁寧に答えてくれたから、できたことだった。ありがたい。

 

 ずっと日常的なことを考えて、それで、前日も悩んでいたりもしたのだけど、今回の展覧会は、今ある「世界」を、大げさにいえば、その外側からの視点について考えるようなことなのかもしれない、などと思えたから、やっぱり来て良かったのだと思う。

 

●日常的でない視点

「展覧会ステートメント

https://toutoutarari.com/statement.html

 

 電車で帰る途中にステートメントを改めて読む。

 

人類は、約700万年前に登場し、いずれ絶滅する、地球や宇宙の生の中のほんの一瞬にだけ繁栄する種であるが、後にも先にもその歴史には、いわゆる「翁的なトポロジー」が(人類とは関係なく)存在する。

「翁」への考察は古くは金春禅竹の『明宿集』がある。そこでは「翁」は人間が感知し得ない存在全ての「あらわれ」として、壮大な宇宙観の中で記されている。「物事の区別以前の混沌」であり、その前には二項対立的なものですら、対立せずに成立してしまう。停滞した日常に揺さぶりをかけるその存在は、私たちの生命力を呼び覚ます。

 

 展覧会に行く前は、自分とはとても遠いところで、見えもしなかったこの文章が表すことが、展覧会に行った後は、なんとなく、こういうことを見せてくれようとしたのではないか。日常とは違うというよりも、日常からも、こういう世界が感じられるはず、とオカルト的なものとは違う「非日常的な視点」を示そうとしていたのかもしれない、などと思うようになった。

 

世界の外側。

 

普段なら恥ずかしくて書けないような表現だし、「翁」とは違うかもしれないし、的外れかもしれないけど、そんなことをイメージするような刺激は受けたような気がする。そういう視点がないと、生き物も無生物も物体も全てが一緒、というようなことはイメージしにくいのではないか。

 

 これは展覧会を実際に観に行かないと考えなかったはずだから、やっぱり行ってよかったのだと思う。

 

 

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