アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

ケラリーノ・サンドロヴィッチ×佐々木敦 ニッポンの演劇#5「戦後日本語演劇を増幅する」。2016.8.16。ゲンロンカフェ。

ケラリーノ・サンドロヴィッチ×佐々木敦 ニッポンの演劇#5「戦後日本語演劇を増幅する」』

https://genron-cafe.jp/event/20160816/

 

 

2016年8月16日。

 ゲンロンカフェのトークショーで、平田オリザが、一番信用している人、という言い方をしていて、今まで、まったく関心がないような状況で、だけど、その平田の言葉で、ちょうど演劇もやっているし、その値段が7000円ということに少し驚く。実は演劇ではちょっと大きい場所だと、普通の値段らしい。だけど、この料金では、普通の観客は行けないと思ったけど、何しろ、その平田の話がすごいと思って、その次にも見たいと思った演劇は、初めて見るタイプのもので、それは30年くらい前に見た小さい演劇場で見たものと似ているようで違っていて、時々、どこに行くのか不安になってしまうような感じもあって、不思議な舞台だった。

 

 今日はトークショーで、80名くらいの定員になっているから、だけど、台風が来ているから、ちょっと行くのをやめようかぐらいの気持ちにもなったけれど、たぶん、こんなチャンスはないだろうし、このケラリーノという人は、有頂天というバンドのボーカルをしていて、というようなイメージしかなかったが、演劇の世界では、かなりのビッグネームらしいということは何となく分かったし、平田オリザが信頼している、ということだし、今日は80名を集めてしまうのだから、すごいのだろうと思ったから、少し早めに行くことにした。

 

 ほぼ時間通りに2人が揃った。 

 ケラリーノ・サンドロビッチという人を初めて生で見た。

 50代だろうけど、その年齢でも、目が澄んでいて、声も落ち着いていて、誠実さもあるように思った。50代だと、このくらいの蓄積が必要なのかも、と思ったりもしたが、率直に自分のルーツの話もしている。

 

 ここからは、記録できたことを、整理されていなくても、可能な限り書こうと思った。

 

 ケラリーノは話す。

 80年代では、宮沢章夫のラジカル〜〜〜を見て、これができるのか、といった感じで見ていた。だけど、演劇が分からないから、80年代は分からないなりにいろいろ見て、自分のやりたいことがやっていないののを確認した。笑いがやりたいのは分かった。ただ、アドリブに見えるのも全部書いてはいるけど、昔の野田さんの舞台で、アドリブに見えての演出が、あーっと思って、それは恥ずかしいと思った。

 

 と言った話をしたあと、佐々木敦は、新作の話になった。

 佐々木は、笑っているけど、でも、こわかった。と言ったが、そんな話を聞いて、特に最後のほうで、人間便器とか言い出した時は、どうなるんだろう、という感じを思い出した。

 

 ケラリーノは、普通は見ていると、どう見ていいか分かって来るものだけど、これは最後の方がおかしくなってきて、突然襲いかかって来る不安定みたいなことができれば、とも思った。という。

 

 どうやって、脚本を書くのか、というような疑問が佐々木から出されると、ケラリーノは、プロットは分からない、きっと本当に行き当たりばったりなのだと思う。ただ、普通のことをおかしくなるような頭になってくる。ただ、昔は思っていたけど、今は新しいものを作ろうと思っていないし、そういう時代じゃない。

 

 そして笑いに関しての話になり、風刺でもない、というようなことになり、ケラリーノは、ヒットラーだから風刺と思われるから、よけいにナンセンスにしたいというのもあるけど、ナンセンスは自分もひっくるめて笑うということで、風刺は正しい、自分がたちが起点になっているから、少し違うかな、と。

 一時間くらいたつと、脳がマヒして観客も笑わなくなってくる。それから、また一時間くらい続いて、そして終わった独特の解放感を、自分が味わいたいけど、なかなか味わえなくなっている。

 ナンセンスの難しさの話にうつり、それは、クリシェを恐れたりもできない。それは2時間できない、といった話のあとに、役者にとっては、ナイロンの時に、そんな恥ずかしいことしないで、と繰り返し言ってきたせいもあって、抑制していて、それがよしあしになっているかもしれない。

 

 恥ずかしいことをしないようにする、ということがあるから、何をしているかどうか分からないということもありながらも、最後まで見られた、ということかもしれない、とも聞いている方は思ったりもした。

 

 佐々木は、笑っちゃいけないのかな、とさらには何だか分からないけど、笑ってしまうような場面、という言い方と、怖さ、みたいな言い方もしていたが、確かに、どこに行っちゃうのだろう、というような怖さがあって、という感じはあった。

 

 ケラリーノは、20代の頃は全部が気に入らないという時期があって、すべてにケンカをふっかけて、だから「笑っちゃいけない」っていうことには反発していたけど、ヒットラーのこの演劇はドイツではできない、という言い方をされていたけど、それはそうだよ、それでもある種の覚悟があって、昔はキャラメルボックスを風刺というか、揶揄というか、最後にチラシを破くような場面があって、だから、その頃は刺されてもしょうがないな、といった覚悟はあって、だけど、表現する以上はそういう覚悟が必要だと思う。

 小さいころから、由里徹さんとか、渥美清さんとかが周囲にいて、狂っているというか、やっぱり普通じゃない。そういうのを見てきたし。

 

 

佐々木 タブーに挑戦、といった姿勢を見せるのもかっこわるいし。それにヒットラーを見ていると思ったら、小津安二郎アンネの日記になっていたりして。

 

ケラリーノ 小津安二郎の美点はナンセンスと似ているというか、ナンセンスな場面に美しいセリフが乗っかるのが好きなのかもしれない。声になる笑いだけをとろうとする台本は豊かさに欠ける。声にならない笑いがあるような、チェーホフ桜の園やかもめは喜劇としているけど、爆笑みたいなものを狙っていないと思う。ニヤニヤとか、くすくすとかそういう笑い。アメリカのコメディがどうものれないのは、がっつきすぎていて好きじゃない。がっついていないのがいいですね。宮沢章夫さんが言っていて、寝てもいい演劇で、観客としては、与えられ過ぎないものを作りたい。

 さっき、いろいろとやれる器用な、という印象があるような言い方をしてもらったけれど、自分としては偏ったものしかできない、ただ出し方を変えているだけで、人から見たら、筆跡一緒という感じなのだと思っている。

 ◯◯さん(役者の名前)が、おもしろくないのがチェーホフと言っていて、やるならそのままやろうと思っていた。ただ長い。退屈なのは重要。実は、脚本を脱稿した時のカタルシスが一番。

 

佐々木 ケラのチェーホフは、ただ真っ当にやったらケラとしての作品になった、という感じがする。

 

ケラリーノ 次はワーニャをやるんですが、ずっとグチを言っているだけで、シェークスピアは思ったことをそのまま言うんだけど、チェーホフは思ったことを言わない。セリフは気持ちを表していないのがチェーホフで、日本では岸田国士ですが、ウッディアレンのペシミズムがフィットするというか、ミュージカルのポジティブさは「うっ」となるくらいで、テンション高くがついていけないけど、そういえば、自分の作品がテンポが悪いっていう言われ方をするんだけど、それは必要最低限のものだけでなくて、通常は必要じゃない、といわれるようなものを入れているからで。

 

佐々木 リアルさというのは、宮沢さんとか、◯◯さんとか、◯◯さんは、はっきりと見えているんだと思う。岸田国士や。

 

ケラリーノ 岸田国士は最初はなめてかかっていて、だけど、けいこをしていたら、これは凄いというのが分かって、そのイキな感じがいいんだ、というよな、あとは、別役実の「病気」とか「会議」とか。80年代後半の戯曲の飛躍とかナンセンスとか、高校時代に一番笑ったのが別役実だということをいうけど、あまり信用されなくて。

 

(→この話を聞いて、若い時に文化的なものに触れていないと、そのあとに取り戻すのは無理なのかも、といったことを思うが、ただ持続とか継続とかで、それも努力とか勉強とかという意識ではないものでなければ、それは本人が楽しいようにやれば何とかなるのかもしれない、といった気持ちもあったりもする)。

 

 休憩が入って、次へ。

 

ケラリーノ 前半に話した小説の話。田中兆子さんの「甘いお菓子は食べません」の「残欠」の所に岸田国士があって、それで、今は岸田国士賞の審査員をやっているんですが、去年、松尾スズキが人のを読んで審査するのは辛くて審査員をやめた。それで、チェルフィッシュ 岡田君が入って、すごく活性化されているんだよね。

 

佐々木 今、演劇関係者と話していると、プロデュースと、助成金とにすごく分かれているんですよね。

 

ケラリーノ 審査員をしていて、なんというか、歴然とした差があって。

 

佐々木 それを岡田利規さんが言っていて、怒っていたと言うか…。

 

ケラリーノ ちょっと怖いのが、ずっと見にきてくれていた人が、急に来なくなるパターンがありますよね。何かが変わったのだろうか、という怖さ。何十倍、何百倍の人へ届けるとしても、変えたくないと思うけど、大きいところで。

 

 

ケラリーノ  志の高いビジョンを持っているのが分かって、だけど、到達していない。到達していないから、よけいにそれが分かるというか、志が見える。それが評価になることがあるんですよね。到達すると、それは凄いのだけど、志が返って見えなくなることがある。

 昔、有頂天というバンドも、目指していたのが、Pモデル、ヒカシュープラスチックスなんだけど、二人は知らなかったから、それが面白かったのかもしれないな、と今は思えたりもするけど。

 

質疑応答のコーナーになる。ここまで約3時間

 

Q 今回、初めて商業演劇を見て「ヒットラー最後の2万年」がおもしろかったのですが

 

A ケラリーノ 今回、演劇じゃないといわれたりもする。ただ、演劇でしか出来ないことをしたいという気持ちはあって、映画は、全部具象じゃないと実験映画に見られてしまうから。

 

佐々木 何をもって、だけど、笑いはナンセンスだと思っている。

 

Q 何もない、というタイトルだったんですが、私は見ている観客はいる、と思っていたんです。

 

A ケラリーノ 藤山寛美さんのけいこの様子をテレビで見たのかな、とにかく「お客さんに見せられるか」といったことをものすごく繰り返し言うんですね。

 僕は、「お客さんはいいから、舞台の上でのことを成立させてくれ」ということばかりを言っているんですね。お客に対して、何かを向けるということでなくて、勝手にくみとってくれるのを信じているのかな。お客が入らないと、舞台は空気が違うのだから。反応がある、というのはまったく違うことで、それは爆笑とかではなくて、言葉にならなくても、何かしらの空気があって、それがあるから、映画もいいんだけど、そういうダイレクトな刺激が返って来ないから、やっぱり舞台を主軸にやっているんだと思う。

 

 

 充実した時間だったが、途中で少し眠ったりもしたが、ケラリーノ氏がすごく誠実なことは分かった気がして、彼の演出するチェーホフを見たいとも思った。