アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

映画「ふがいない僕は空を見た」。2011.1.21 。キネカ大森。

映画「ふがいない僕は空を見た」。2011.1.21 。キネカ大森。

2013年1月21日

 ポッドキャストでライムスター宇田丸さんの映画の話を聞くようになってから、おそらく誰の言葉よりも、映画に関しては信じるようになっていて、その話で、面白いようなのなので、見たいと思っていて、やっとボランティアの帰りに見にいけた。

 

 「ふがいない僕は空を見た」。ちょっと昔の文学臭がするようなタイトルが気になってはいたが、でも、始まりからセックスシーンが田畑智子がキレイでエロティックだけど、何か変で、という感じでもあって、その背景が描かれ出してからは、そのセックスの違う意味が重なって来て、その上、そのシーンがインターネットで流れたりしてから、いろいろと無茶苦茶になってはいく。
 
 その後、その主人公の高校生の友達が中心の話になってからは、今の時代の貧困を描いていて、その感じがすごくリアルだったし、その友達がどんな厳しい場面でも泣いたり、叫んだりしなくて、なんだかすごくて、屈折した行為をその団地に住む同級生の女子校生とするのがなんだか楽しそうに見えて、それでも、いつもぐっと構えていて、そのうちに、自分で勉強を始めていた。
 

 そして、最初の主人公の母親が助産婦をやっていて、いろいろとリアルな厳しさはありながらも、生まれて来る事、生きていくことに肯定的な感じが、伝わって来て、前半のどうしようもなくなった感じが、そうはいっても、生きていけばいいんだ、と決して安直ではない感じに淡々と描かれていて、その感じが、自分にも振り返って来て、すごくよかった。

 

 ただ、貧困が描かれていて、それを観客として見るのは、いうのは、一種の貴族の遊びにも近いかもしれず、自分だって、そういう事は他人事でないとは思いながらも、でも、自分はやっぱり恵まれているとは思った。自分の、母親が、ここから抜け出したいと思った、と勉強を必死でやっていた、というのが改めて思い出されたし、会社の昼休みに絵を見に行くという教養への行為も、どこか執念だったんだ、とも思い、その感じは、母親が思ったのと違う形で息子である自分に受け継がれているかもしれない、とも思い、今も、また貧困というか貧乏ではあるけれど、、教養か、ただの知識か情報かは分からないが、だけど、その知識にしても、情報にしても、そのことを知っていることによって、貧困に落ち込みにくい可能性は少し高めているのかもしれないなどとは思った。

 

 ラーメンを食べて帰った。

 

 

 

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