『何もしない』 ジョニー・オデル
表紙は白く、タイトルが文字としてあるだけで、とてもミニマルな装丁(松田行正)で、それ自体が、「何もしない」をかたちにしているように見えるけれど、でも、当たり前かもしれないけれど、それは、バランスを含めて考え抜かれているに違いなく、美しい仕上がりになっている。
つまり、この書籍自体が、「何もしない」というコンセプトをあらわしている立体の作品に見える。
そして、最初は、なんとなく、これまで読んだ脱力系の感じがしながらも、それらとはなんだか違うのかも、くらいの印象だったのだけど、それは、もしかしたら、自分の理解力の不足の可能性も高いが、個人的に、グッと気持ちが前のめりになるように面白くなってきたのは第三章からだった。
二〇〇八年、大手会計事務所、デトロイト社のオフィスでは、ある新入社員の行動にほかの社員が困惑を深めていた。周囲がせわしなく働くなかで、彼女は何も置いていないデスクに座り、ただ空を見つめる以外は何もしていないように見えた。何をしているのかと尋ねられると、「考えごとをしている」だとか、「論文執筆に取り組んでいる」と答えた。上がったり下がったりを繰り返すエレベーターの内で立ちっぱなしの日もあった。その姿を目撃した同僚に、「また考えごとをしているのかい?」と訊かれると、「こうしていると、別の視点からものごとを捉えやすくなるんです」と答えた。社員のあいだに動揺が広がった。そして、緊急の社内メールが飛びかった。
これがこの章のはじまりだった。
この現場にもし居合わせたとしたら、戸惑いながらも、そういう人が存在すること自体に、なんだか面白くなっていたような気がする。
あとになって、社員たちはそうと知らされずに、〈研修生〉(The Trainee)というパフォーマンス作品に参加していたということが判明した。口数の少ない研修生の正体はビルヴィ・タカラ、なんでもない行動で社会通念を静かに脅かすようすを収めた動画で知られるフィンランドのアーティストだ。
こういう作品と知ると、さらに面白いと思ってしまうのだけれど、でも、このデトロイト社の社員は、どう思ったのだろうか。怒る人もいたかもしれないけれど、何かをしたのではなくて、何もしていないことが、それがたった1人だけでも、それだけの影響があることが、おそらくは現代なのだと思う。
それでも、著者が書いているように勤務時間中に、他の何かをしてサボっていたとしたら、こうした混乱は招かなかったに違いないが、「他の社員を落ち着かなくさせたのは、徹底した無為のイメージ」だったのだけど、その混乱こそが「何もしない」の力のようにも思えてくる。
そして、さらに、このタカラというアーティストは、別の場面では、ユーロ紙幣がぎっしり詰まった透明なビニール袋を提げて、ベルリンのショッピングモールを歩き回った「作品」もあることも紹介されていた。そのときも、お金があることが確実な客として歓迎されるのではなく、「警備員に不審がられ、店主からはぞんざいな扱いを受けた。そして、周りの人から、中身が見えないバッグにするべきだと諭された」という状況も書かれている。
それはそうだろう、と思うと同時に、こうした少し違ったことだけで、人々の混乱を招くのは、多様性などと概念としては言われていても、実は、とても同質性が進んでいるのではないかといったことも考えさせられる。
こうした、本来は危険ではなく、些細なことのように思える行為によって、周囲に影響を与え、それを記録すること自体が、いかにも現代のパフォーマンスアートであり、この作品を見たいと思ったのと同時に、この著者のプロフィールを確認してしまった。
アーティスト・作家。スタンフォード大学講師。バードウォッチング、スクリーンショットの収集、おかしな電子商取引の解析など「観察」をともなう作品を多く発表し、フェイスブック、インターネット・アーカイブ、サンフランシスコ都市計画局、レコロジーSF(ゴミ収集業者)など多様な団体で招聘アーティストとなった。
やはり、というか、著者自身もアーティストであれば、こうしたパフォーマンスの取り上げ方も、納得があるのだけど、こうした著者自身の作品を見たことがないので、この短い紹介文だけでは想像がしにくいのだけど、これだけ、さまざまな団体に招聘されるということは、それだけ独特で、必要とされている、ということなのだろう。
だから、これだけ「何かをしている」人の「何もしない」は、これまで触れてきた「何もしない」とは違うのではないかと改めて思えたし、その視点によって選ばれたのは、現代のパファーマンスアーティストだけではなく、古代ギリシアの哲学者・ディオゲネスだった。それは、著者にとっては「拒絶の力」を持つ人として紹介されている。
アレクサンダー大王は、ディオゲネスが日向ぼっこをしてまどろんでいる姿を目の当たりにしてその在り方を絶賛し、何か所望するものはないかと尋ねた。すると、ディオゲネスは「はい、日陰になるのでそこをどいてもらえませんか」と答えたのだという。
こうした話は、のちのつくり話かもしれないが、そうしたエピソードが残されるような人でもあったのだろうし、この出来事が延々と語り継がれることに意味があるのだとも思う。
対話を好んだことで有名なソクラテスにたいして、ディオゲネスの実践はパフォーマンス・アートに近いものだったというものだ。
その上で、急に現代に戻る。
ディオゲネスの弟子として認められそうなパフォーマンス・アーティストが、シェ・ダアチン(謝徳慶)だ。一九七八年に彼は〈ケージ・ピース〉(Cage Peace)という作品のために自らのスタジオに約二・八メートル四方の檻を設置して、ぴったり一年間檻のなかに入って過ごすパフォーマンスを行った。毎日、友人が食事を運び、排せつ物を片づけた。シェはさらに過酷な条件を課した。話したり、読んだり、書いたりすることを自らに禁じたのだ。
このシェの作品が発表されたのがすでに50年ほど前のこと(恥ずかしながら全く知らなかった)なのだけど、このパフォーマンスは、時代が進むほどその価値が見直され、再評価が進みそうな気がするのは、「何もしない」こと自体が、誰にとっても稀なことになる一方だからだ。
この著書では「注意経済」と表現されているが、確かに翻訳すると、その通りなのだけど、現代であれば、それほど新しい事情に詳しくなくても、「アテンション・エコノミー」のことは知っている。
とにかく悪いことであろうが、いいことであろうが、インターネット上では見出ししか読まないのだから、とにかく興味を持ってもらうために、どんどん表現が激辛になっていくようで、しかも、現時点では、その「アテンション」を集めるほど、収益になる、という状況が続いているらしいことも、うっすらと情報としては把握している。
注意というのは私たちが唯一取り下げることのできる、最後の切り札なのかもしれない。
実は、注意を向けているのは、自分自身であり、それをコントロールすることができるのも事実だが、今は、それが難しくなるほど、注意を向けさせる技術が発達しているのが「アテンション・エコノミー」だからだろうか、著者は、他のことに注意を向ける方法を提案している。
第四章 注意を向ける練習
例えば、現代アーティストのデイビッド・ホックニーの映像作品『ヨークシャー七つの風景』を見たあとに、美術館を出たあと、世の中の見え方が変わる、といったことを鑑賞者が語るようだ。
サンフランシスコ植物園があるのだが、とりわけ、美術館を出たあとですぐにそこを訪れた者は、ホックニーの作品によって独特の見方が鍛えられたと感じていた——それは、きわめてゆったりとした、細分化された視点でテクスチャーを堪能する方法だ。
さらには、これはアーティストである著者だから、より、そういう変化があるのかもしれないが、何の演奏しないというジョン・ケージの『4分33秒』を実際に聞いた後におとずれた感覚的な変化や、第2次大戦後、アメリカを現代アートの中心地に持ってきた大きな要素でもあるバーネット・ニューマン「アメリカ抽象表現主義」を鑑賞したあとの変化も語っている。
これらの絵画を通して私は注意の持続時間への理解を深め、ものの見方やどれぐらい長く眺めたかによって、見える世界が変わるということを知った。それは呼吸とよく似ている。
つねにそこにあるものほど、よく知っている気がするいっぽうで異質に感じられるものはない。それらすべてのあいだに、その下に、そのまっただなかに、私が生まれる前から、クパチーノの街ができる前からの存在がうねっていた。
何かをするための「何もしない」
最初に抱いていた消極的な「何もしない」ということではなく、今の価値観にあたる「何かをしない」ために、他の「何かをする」。
そうした積極的な提案の本だと、読み進めるうちに分かってくるが、直線的に内容が続いているわけではなく、6章それぞれの方向へ発展しているように思えてくる。
だから、それぞれの章のタイトルで気になるところから読むのもいいのかもしれない。
第一章 「何もない」ということ
第二章 逃げ切り不可能
第三章 拒絶の構造
第四章 注意を向ける練習
第六章 思考の基盤を修復する
『何もしない』というタイトルから連想される内容とは、かなり違う方向なのだけど、確かに視点を変えてくれる作品だと思う。