2020年3月から、2023年5月まで、約4年にわたる連載時評を書籍化した作品。
コロナ禍を、美術批評家がどのように見てきたのか、という記録でもあるし、やはり、独特の視点、という印象だった。
2024年の時点では、椹木は、このように書いている。
わたしたちがいま思い起こさなければならないのは、喉元を過ぎたあとの「楽さ」ではなく、むしろその前に実際に感じていた「熱さ」の方なのだ。そんなことをいまさら、と言われるかもしれない。そうでなければ、日々の時の経過のなかで、かつてのスペイン風邪のように、またもわたしたちはなにもなかったかのようにすべてを飲み下してしまいかねない。
(『パンデミックとアート』より。以下、引用部分は同著より)
その、コロナ禍の「熱さ」に関わることを、2020年から2023年まで、椹木はずっと書いてきたようにも思える。
衛生観念ほどやっかいなものはない 2020年3月27日
新型コロナウイルス対策として安倍首相による不要不急の催しへの自粛要請が発せられると、翌日以降、国立の博物館からポツリポツリと閉まり始め、次第にそれが国立の美術館に及ぶと、そこからは五月雨式に公立、私立を問わず展覧会が期間限定で閉まり始めた。最初は期間限定であったものが再度延期され、なかには途中で復活することなく会期を終えてしまった展覧会も少なくない。
ただ、2020年当時、一般の鑑賞者としての自分も、特に現代美術の展覧会は、「密」から遠いと思っていた。
やはり、特別に混乱するほどの集客が見込めない現代美術の展覧会では、対策さえ入念に講じれば、継続は可能だったのではないだろうか。
その1ヶ月後くらい、2020年4月には、『方丈記』に関して、こうした文章を書いている。
パンデミックは大小の差こそあれ、今後も繰り返されざるをえない。ポスパン(ポストパンデミック)とは、パンデミック以後の世界というより、パンデミックが何度でも繰り返される世界でどう生きるかなのだ。引きこもりの芸術は、積極的な籠城のための新しい価値観の萌芽かもしれない。
世界を股に賭ける大冒険もない。生き馬の目を抜くような駆け引きもない。だが、それでもなお数百年の時を超えて読み継がれるイマジネーション豊かな一大古典を書くことができたのだ。秘訣は「ステイホーム」だけでよい。驚くべきことではないだろうか。
そして、著者の思考は、過去や場所などを超えて、さまざまなことと結びつける。地震などの天災が多い日本は、「悪い場所」ではないか、と著者は指摘したことがあった。
欧米も「悪い場所」かもしれない 2020年5月8日
だが今回、新型コロナウイルスが呼び覚ましたスペイン風邪の記憶は、西欧やアメリカでも同様に、(中略)随所で集合的、かつ大規模な記憶喪失が起きているかもしれないという予感をもたらした。西欧もまた、程度の差こそあれ日本と同様に悪い場所かもしれないのだ。
さらには、「ステイホーム」がもたらしたかもしれない意識の変化のようなものに対して、美術批評家の視点とも思える指摘もしている。
家の外は悪夢となり、家の中が現実となった 2020年5月21日
新型コロナウイルス対策で家にとどまるのが日常になってから、夜寝ると夢を見がちになった、夢の質が変わったという話を聞くようになった。都市伝説めいた眉唾に思えないでもないが、知人友人から似た声が届くと、むやみに軽視できない気がしてくる。
家の中がすでに社会なのだから、わたしたちが娯楽や休息をとる機会は就寝後の世界しかない。つまり、外から順番に押し込まれ、結果的に夢の世界が「娯楽や休息」のための最後の貴重な領野となったのだ。いきおい夢には、娯楽や休息のあとに見る単なる余剰以上の意味が担わされることになる。そのことが、先に触れた夢の質の変化と関係してはいないか。
そして、緊急事態宣言は、何度か出されることになる。
すべてが異例の緊急事態宣言下の展覧会 2021年1月28日
「平成美術 うたかたと瓦礫 1989〜2019」のセレモニーはすべて中止となり、内覧会では東京などから移動する多くの参加アーティストを招くことができなくなった。わたしはと言えば、やはり感染者が増え続ける東京から向かうため、念のためPCR検査を受けてからの監修仕事となった。まさか、到着後のホテルで検査のための唾液を採取することから展示準備が始まるとは、かつてなら夢にだに思わなかった。
何より、オリンピックは感染拡大で、緊急事態宣言下の中で行われたのだった。
シャーレの中の闘技場 2021年5月27日
先週末(5月21日)、国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ調整委員長が記者会見で発した言葉には一瞬、耳を疑った。開幕が2か月後に迫った東京五輪の時期に、新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が日本国内で発令されていたとしても、大会を予定どおり開催する姿勢を示したからだ。
日常の感覚で言えば、この姿勢は、やはり異常といってもいい。
東京五輪は時空を異とする「並行世界」だ 2021年8月5日
酷暑下の7月31日、東京での感染者数が初の1日4000人を超え、新型コロナウイルス感染症の拡大が首都圏を中心にいよいよ危機的な状況を迎えつつある。
ところが、緊急事態宣言下であるにもかかわらず、テレビはどのチャンネルをつけても連日連夜の五輪一色だ。ときおり挟まれるニュースで伝えられるコロナ禍の深刻さとの落差があまりにもかけ離れていて、同じ国で同時に起きている出来事とは到底思えない。
それからも、感染拡大は何度も起こり続け、2022年には「第6波」を数えていた。
年月の感覚がおかしくなってきている 2022年1月27日
年明けからまもなく再拡大したコロナの第6波は、これまでにない勢いで過去の感染者数を塗り替え、東京ではとうとう一日に新規感染者数1万人を超えるまでに至った。2022年になったばかりなのに、21年、いや20年と同じことを繰り返しているようで、年月の感覚がおかしくなってきているように感じるのはわたしだけだろうか。
このあたりの率直な感想は、やはり、いつも美術を肌で感じるように論じてきた美術批評家の見方、というような印象もある。
「古臭い生活様式」の回復を 2022年2月10日
手水も、衛生観念というより感染症対策であった可能性があることになる。もしかしたら、いまのわたしたちに必要なのは「新しい生活様式」ではなく、「古臭い生活様式」なのではないか。そしてアートに引き寄せて言えば、「古臭い生活様式」にもとづく新しい表現なのではあるまいか。
さらには、当然ながら美術そのものへの言及もある。
パンデミックだからこその美術とは 2022年2月24日
パンデミックによる生活環境の激変は、社会活動の大幅な停滞こそ余儀なくされても、創作者、とりわけ絵画や、もしくは文学のように、たったひとりですべてをこなす必要がある芸術家にとっては、必ずしも悪い条件ではない。というよりも、そうした状況下でなければ生まれない想像力を加速し、コロナ以前では見られなかったたぐいの作品を世に出す可能性がある。
そして、新型コロナウイルスが「5類移行」する前には、あまり誰もしないけれど、大事な指摘もしている。
夢のなかで人はなぜマスクをつけていないのか 2023年3月28日
改めて思うのは、3年に及んだマスク生活の「風景」というものが、わたしたちの無意識にどれほど定着したのだろうか、ということだ。そんなことを言うのは最近、はたと気づいたことなのだが、夢のなかでマスクをしている人を見たことがないように思うのだ。もしかしたらこれはわたしだけのことかもしれない。だから、どれくらい一般化して考えてよいのかもわからない。けれども、コロナ禍となってからの夢の記憶(という言い方もなにか変な気がするが)を掘り起こしてみても、マスクをした人の顔というのがどうしても思い出せないのだ。
この著書の中では、コロナ禍というパンデミックの中、作品のない展示室を展示する、という試みをした美術館のことなど、美術についての言及も、もちろん多いのだけど、特に、新型コロナウイルスが脅威だった頃のことは、著者の指摘通り、かなり忘れてしまっていることにも気がつく。
いま、読んだ方がいい作品のようにも思える。
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