アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」。2016.3.5~5.29。東京都現代美術館。

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「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」。2016.3.5~5.29。東京都現代美術館

 

2016年5月8日。

 アニュアルは、この発音も意味も今だにはっきりと分っていないというか、どうもピンとこない言葉のままだけど、1999年から始まって、その間に行われたものは、全部見ている。今回で14回目。振り返れば、自分が介護生活に入ってからとほぼ重なるのだけど、毎回、知らない作家も多いのだけど、見てよかった、というか、見ながらも考えて、あそうかと思ったり、分らないままだったり、解説的なものを読んでよけいに分らなくなったり、その前にその文章に反感をおぼえて、それがひがみなのかどうかを考えたり、そういうことを含めて楽しい時間だった。

 

先が見えない生活の中で、その時はそのことだけを考えられたような気がしたし、テーマがあって、それが妥当なのか、とか、いろいろと考えられたせいもあって、ありがたい企画だった。途中で、年に1回だったはずが、もう少し時間があいて、終っちゃうのかな、と思いながらも続いたので、それはホッとしていて、けっこう楽しみにしていた。

 

「キセイノセイキ」。

 問題提起をしているらしいチラシの文章。だけど、この展覧会自体が、自主規制が多くて、規制がきつくて、といった話をツイッターなどで知った。これが10年前だったら、そういうこと自体が知らないまま進んで、そういうゴタゴタしたことも、もっと遅れて知ることになるのだろうけど、去年、会田誠の作品を巡って、それこそ撤去という自主規制をめぐってトラブルがあった場所だけに、よけいに意味が変わってくるのに、とも思い、そして、今回はアーティストたちの組織「アーティストギルド」と企画の段階から作ったということだった。

 

 それで、展示室はスカスカになってしまったり、キャプションだけになってしまった人がいたりで、それは「空気」という作品で、無人島プロダクションで見ることができたから、ある種の豊かな体験も出来たけど、こうして外へ向かって議論が広がったのは、アーティストらの努力によるもので、美術館は、「既存の価値観や社会規範を揺るがし問題提起を試みるアーティストたちの表現行為は今、社会や人々に対してどのような力を持ちえるのでしょうか」ということを示しているのだから、そのためにもっと表現ができる側に立つべきだったのに、とは思った。

 

どうしても、美術館側のキュレーターの顔が浮かんでしまって、いい印象が残りにくくなっている。トークも少なく、この日にあったらしいが、20名先着が40名に増やされたらしいが、どうも少なく、監視されているような感じだったのだから、それが「やらせ」だったら、この展覧会の作品のようだけど、おそらくは「ことなかれ」ではないのか、と勘繰ってしまう。無人島プロダクションの人が、アーティストは海外に出て、発想が広くなっているのに、という言い方をしていて、それはサッカーのようだとも思った。選手は海外に行って、世界で戦うための発想になっているのに、サッカー協会は古い人ばかりで強くならない、といった構図と。

 

 美術館に着いて、受付で去年の展覧会の記録集のことを聞いたら、奥から立派なカタログといっていいものを持ってきてくれた。そして、いつもとは違って、人が並んでいて、チケットを買うだけで5分待ちだったのは、「ピクサー展」をやっていて、人を集めるのも仕事だから、とも思いながらも、それで40分待ちは凄いと思いながら、アニュアルはすぐに入れた。

 

 入り口の大きい写真。若い女性が制服姿で酒を飲んでいる姿。女子校生がアルコールを一気飲みしているようにも見える。すぐに、この人は20歳を過ぎているよね、などとも思ったり、この飲み物がホントにアルコールかどうかも分らないのに、と考えたり、思った以上にルールを意識していることに気づかされる。齋藤はぢめ。

 

 壁に描いてある「美術館様へ」というドローイングはいろいろ描いてあるのだけど、日本語でないので、分らない。ルーマニア生まれで、チャウセスクの独裁政権の中での厳しい言論統制の中で育ったダン・ペルジョヴスキという人の作品。1989年までは、その中で育ったということなのだろう。これから日本も(分かりにくい)言論統制の時代を迎えるかもしれないなどと思った。こういう繰り返しは嫌だけど、個人だけではどうしようもない。

 

 藤井光。爆撃の記録。一度は公的に平和祈念館が作られようとして、そのために貴重な証言も集められたのに、議会の反対で中止になった、ということがあって、だからなのか、今回もほぼ空のショーケースが並んだような展示になっている。それに一部屋使っていることには意味があるように思え、少なくとも、大空襲の記念館が、この美術館からさほど遠くない場所にあることも、椹木野衣ツイッターで知り、今度行こうと思ったから、意味はあるのだと改めて思ったりもする。

 

 小泉明郎。「空気」は展示されていない。その文章が『《空気》は、日本における強固なタブーとして、空気のように透明な存在となった身体を表象化できないジレンマから生まれている。「空気」を慮るという要請が発動させる自己検閲の帰結をあえて展示として可視化している』とあるが、ギャラリーで読んだ交渉の記録とは印象が違っている。オーラルヒストリーは、じっくりと聞く時間がなく残念だったが、ある程度の勝手な予測では、聞くに耐えないようなことを当然のように話す人がいそうだ、というようなことだった。

 

 高田冬彦の作品。分っていても、男性が女性の格好をしていると分っても、裸は見てしまう。デュシャンの作品みたいだった。ビデオを有効に使っていると思う。

 

 横田徹の映像。戦場の記録。見ることは難しい現場。いつ死ぬか分らない場所というのは、こういうところなのだろうけど、ちょっとしか見ていないけど、人という存在に対して、あまりにも強力すぎる武器だと、軽トラみたいなところから発射されるミサイルに対しても思うのだから、本当の爆撃の破壊力は、過剰としかいいようのないものだろうし、そういうもので殺されるのは、やっぱり嫌だとも思ったが、映像は当たり前だけど、今もある場所で、そこでは日常になっているだけの光景なのだろうとも思った。

 

 遠藤麻衣+増本泰斗。裸を使った映像は、見てしまう。そのパフォーマンスは遠くから見るだけだった。

 

橋本聡の警備をしている人のサイフの中まで作品があるという設定や、実際に観客に何かをやらせるというのは、面白かったし、古屋誠一の自殺してしまった奥さんの写真作品は、独特の緊迫感があると思えるのは、その経緯を知っているからか、などと思ったりもした。

 

 今回、見るのに時間がかかったのは、30分ほどの映像作品。

 アルトゥル・ジミェフスキ。「繰り返し」(2005年)。いわゆる「監獄実験」の再現をした映像作品。途中で、髪を丸坊主にさせたり、それを拒否する人がいたり、その拒否に対して、囚人役の人が説得して成功したり、だけど、食事に放尿もしたり、とだんだんおかしな気配が濃くなってきたところで、全員で話しあって、この再現を終らせる。もしも、カメラで撮影していなかったら、もっとエスカレートしていたのだろうか。ただ、撮影があっても、役割があると、人はどんなことでもするかもしれない、とは確かに思える気配があった。

 

 全部で1時間20分ほどかかり、あわてて、ぎりぎり常設展に行った。

 ホックニーの版画はいいな、と思ったり、宮島達男の作品をしばらく見れないと思ったり、もっとゆっくり見たいなと思ったり、植物をモチーフにした作品もいくつもあって妻と来たかったと思ったりもした。

 今月末から、長期の休館に入るそうだ。

 新しくなったら、もっと管理がきつくなっているのだろうか。それとも、そういうことへの注目がゆるむ頃まで意識的に休館を続けるのだろうか。

 

 

 

 

(2016年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)

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