アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「イタリアのガラス」。1998.6.6〜7.26。東京都庭園美術館。

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「イタリアのガラス」。1998.6.6〜7.26。東京都庭園美術館

1998年6月。

 イタリアは、自分が歳をとるたびに不思議な底力を感じる機会が多くなる。

 第2次世界大戦で負けた国、ドイツ、日本がそこで解決されていないものをまだ抱え込んでいるように思えるのに、イタリアは何か違うものを感じる。

 サッカーではワールドカップで3回の優勝。

 ファッションでは、個人的にはよく知らないけれど有名らしい。

 ミラノ、ローマ、ベニス。そんなに詳しくない人間でもいくつも知っている都市の名前。

 そして、アート。

 ここまでは、ドイツと似ているかもしれないが、イタリア人を見ると男はみんなジゴロだと思えるくらい楽しそうに感じる。

 

 といったことを言うと、経済的には苦しいんだよとか何とか教えてくれる人も多そうだが、でも余裕がどこかにあって、イメージがどこかいいのは変わらない。アメリカだとロッキーという映画で“イタリアの種馬”と言われていたし、イタリア系は妙に下に見られている感じは少し分かるが、でもその国で作られたものを見るとまたイメージが上がっていく。

 

 目黒の庭園美術館での展覧会。器にそれほど興味はないけれど、妻に付き合うつもりで行った。

 

 かなり昔なのにカネに糸目を付けずに建てられたから、今でもモダンさを感じる建物にイタリアのガラスの器が似合っている。

 赤、青、緑、白、紫、黒。こうやって色分けをきちんと出来ないくらい微妙に混じりあって、でも美しい全体を作り上げている。形も曲線を主体として、崩れそうで柔らかそうで、でも気持ち悪くなく、ただ自由さを多く感じる。外の光りを受けて、きれいな光をまた生んでいる。だから、もっと光の取り入れ方を工夫すればいいのにとは思ったが。

 

 好きなことしかしない。

 美しいものが好きで、醜いものを嫌悪する。

 心の底からの気持ちよさ。

 快楽。

 もちろん、技術を磨く大変さはあるだろうが、それよりも、こうした要素を何百年と大事にしてこないと生まれない器たちに見える。それは、たぶんローマ帝国からのつながりが可能にしているんだろうけど、ウソのない蓄積がなければ、こうはならないはずだ。

 

 日本のことを少し考える。

 別に全てが優れているわけではないだろうけど、江戸時代の粋を捨てて明治以来、近代化を進めてきた。それは、仕方がないかもしれないが、今振り返って全てを肯定する必要もない。浮世絵が娯楽として、成り立っていた。美学というものが、美しく根付くには時間がいる。明治以来、それまでの美学をたぶん捨て去ってしまったから、今の日本の貧乏臭さにつながってしまったように思っている。ウソが多くて、蓄積がない。極端に言えば、そんな感じで、その結果が現在ではないだろうか。

 

 イタリアのガラスを見てそんなことまで考えさせられた。

 庭園美術館には、その建物の中に喫茶店がある。広いホールに柔らかすぎず固すぎず座って気持ちいい大きなソファーが並んでいる。天井も高い。空間が気持ちいい。20年ぐらい前、どこの家でも客間を作り、シャンデリア(のようなもの)を備え付けた時代があった。私の実家もそうだった。たぶんこんな感じを目指していたんだろうけど、随分と違ってしまったのを覚えている。最終的には、地震対策のために、はずされてしまった。

 

 喫茶店のソファーは気持ちよくて、座っていると思わず寝てしまうほどだ。それから、庭園美術館に行く度にそこの喫茶店に寄るようになった。そこのサンドイッチセットは食べようと思いながら、行く度に売り切れが続いている。

 イタリアのガラス。行ってよかった。

 

(1998年の時の記録です。後年に、多少の加筆・修正をしています)。

 

www.teien-art-museum.ne.jp