アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

大宅壮一文庫ノンフィクションフォーラム
武田徹VS.津田大介VS.森健
「フェイクニュース時代のノンフィクション」。2017.9.29。新宿紀ノ国屋ホール。

大宅壮一文庫ノンフィクションフォーラム武田徹VS.津田大介VS.森健
「フェイクニュース時代のノンフィクション」。2017.9.29。新宿紀ノ国屋ホール。

https://www.kinokuniya.co.jp/c/label/20170727151840.html

 

2017年9月29日。

 確か津田大介ツイッターで見つけたイベントで、入場料は1200円くらい。それが安く感じるのは、今はトークで2500円くらい。勉強会でも最低2000円くらいだからで、しかも、自分は携帯も持てないくらいの貧乏なのだから、金銭感覚が、少し変な感覚になっているのが、こういう時に少し分かる。

 紀ノ国屋のこのイベントは、もう随分とやっているみたいで、「新宿セミナー277回」とあるから、いつからやっているのか想像がしにくいくらいの回数になっているのだけは分かる。

 

 3人の話が始まる。

 それぞれがテーマに沿って、話す。武田徹は、最近読んだ本の内容に即した話だった。津田大介は、どうしてフェイクニュースがこんなに広まったのか、といった話をするときに、この10年間でスマホの普及とツイッターの利用者が本当に爆発的に増えたことと関係があるのではという前提を話し、構造がどうっしても生んでしまうものがあるという話題となった。

 その上で、ノンフィクションそのものに、フェイクと紙一重のものがある。事実だけだとつまらない。だから、盛る。だけど、それはバランス感覚みたいな話になり、たとえば大宅壮一ノンフィクション賞を二回も受賞した人がいるのに、そんな話になってしまい、そして、どうすれば売れるか、とか、どうやって生活が出来るか、といった話題になったりもしていて、こういう話題は、もちろん完全にイコールではないにしても、似たような事は30年前も言われていた。

 

 いい作品には、その評価を下す人達が必要で、そうなったら、経済的なことも含めて、そこを保証できれば、たとえば伝統芸能のような形になってもいいのではないか、とか思ったりもする。

 

 ただ、美談がデマとして広がりがち、という話を読んで、それこそノンフィクション作家がそういうことには強いのだから、美談でなくても短かい場面を切り取るような話を書いてくれれば、それは、やっぱりすごいのかもしれない、と思ってくれるのではないか、と思ったりもして、そのことを伝えたいとも思ったが、質問者はもっと積極的な人が2人もいて、できなかった。

 

 ただ、ノンフィクションの優れた人達はグループを作って、その中でいい作品を選定してくれれば、違うのにな、と思ったりはした。誰がすすめるのか、ということが、以前よりも重要になってきているのにな、とも思ったりもした。

 

 質問者は2人。迷える若者と、自説を主張する高齢者。どちらも男性。ちょっとうんざりしたが、その2人を見事にさばく津田に感心もする。慣れているのだと思うが、それが、壇上と観客の差ということかもしれない。

 

 今は書きたいものを書いて、それをインターネットを使ってでも、伝えることが出来るようになった。それは、すごいことだと思う。

 

 

 

 

小倉昌男 祈りと経営』 森 健

https://amzn.to/3PnlAPq

 

『日本ノンフィクション史』 武田 徹

https://amzn.to/3pbDCJL

 

『情報戦争を生き抜く』 津田大介

https://amzn.to/43QZIjR