2000年4月20日。
この展覧会と関係ない話ではあるけれど、1999年12月に佐倉美術館で宮島達男の講演を聞いた。考えれば、その展覧会に作品を出しているわけでもなかったが、99年のベネチアビエンナーレにも日本代表として(といっても国からほとんど援助も協力もなかったらしいが)出品していて、「権威」があったせいかもしれない。
その時、自分の作品の変遷をスライドで見せてくれた。デジタルカウンター発光ダイオード。彼の代名詞のようになっている点滅する光り。原美術館でも常設になっているし、どこかの美術館のロッカーにあったりもするし、そのある意味、パターン化された作品からは、もっと戦略の匂いや大御所の気配が漂っていたし、そのインタビュー内容もそれを裏づけるようなものだったから、そのイメージと本人の話す姿が違うのがまず意外だった。もっと、自分の作りたい、といった気持ちに正直に見えた。
終って質問の時間になる。
若い美大生らしき青年が手をあげた。「作品を作って、いろいろ教授とかに批判されるのですが、どうしたらいいでしょう?」という内容を、かなり遠回りに聞いていたが、宮島達男はそれに対して正面からとらえ、きちんと答えていた。
「心の中のぐちゃぐちゃを出していくことが作品になり、それを表現するのが絶対的な質。作品に対して、いろいろ言われても、その絶対的な質は変えちゃいけない。だいたい、作品の評価は、時代によって平気で変わったりするし」といったことを話した。「心のずっと奥の方」から、をブルーハーツがマイブームという言い方を交えつつ、絶対的な質の強度を高めることは考えなくちゃいけないが、絶対的な質は変えちゃいけないと、何度か誠実に言っていた。
いくつか質問が出た後、もう、若い人も手をあげてないので、せっかくだから、質問をした。「デジタルカウンターが代名詞のようになり、それで国際的な評価も得て、でも、もしそれに飽きたら、それまでの評価を考えて、それでも続けるのでしょうか。変えるのが、恐くなったりしませんか?」という内容を、もっと回りくどく、聞いた。宮島達男は、その聴衆の中では、年齢も高いし、美術関係者にも見えない、怪しい人間にも誠実に答えてくれた。
「1984年頃からカウンターを使ってきて、最初はLEDそのものがなかなか使えないくらいの時もあった。その頃は、パフォーマンスもやっていた。その後、確かに形式主義になってしまったこともあった。それもあって、1995年頃から、それまで10年くらい封印していたパフォーマンスを再開した。そういうことで、それまでの自分の中のわだかまりみたいなものが減り、柿ノ木プロジェクトも始めたし、今は逆にLEDを作りたい気持ちが強くなっている。もし、その時々で自分の作品を変えていくとしたら、やはり、その時の自分の気持ちに正直になることだと、思います」。
それから4ヶ月、2000年4月。オペラシティーギャラリーへ宮島達男展を見に来た。いろいろな人がカウントダウンをし、ゼロは洗面器に顔をつける姿をビデオに撮り、それが流れている部屋から始まった。この時はその中身はミルクだが、那智の滝の水で同じことを行っているのを、数年前に「プロジェクト フォー サバイバル」で見た。それから、数字が空中を彷徨うように動いていたり、この前は川村美術館でタイヤをつけて数字が走っているのも見たし、確かに自在な感じは前よりも強いようにも思えた。
そして、メガデス。暗い部屋。広い壁一面に、光ってカウントし続ける数字がいっぱい並んでいる。この人の作品では個人的に、今まででもっとも美しいと思えた。姑息な観客でもあるから、何かをするとこの光りが全部消えて、真っ暗になると雑誌で読んで、知っていた。
その部屋の床に座っている何人もの人も、たぶんそれを待っているんだと思った。作品の壁の上にセンサーらしきものがあるのを発見し、その下を何度か歩いた。でも、全然変化がない。妻が、イスに座る係員に聞いてくれた。「この光りは、消えます。でも大量殺りくがテーマですから、何らかの人為的な行為がないと消えません」。たぶん用意された言葉なのだろうが、その説明を間接的に聞いて、感心した。気持ちのいい答えだった。でも、もちろん、どうすれば消えます。は教えてくれない。
何度目か、センサーの下を通るように、壁ぎわを歩いていると、突然真っ暗になった。予想以上の暗闇。少し離れた妻がどこにいるかも分からない。そろそろと後ろに歩いて、床に座る。予想以上に長い時間、真っ暗だった。たぶんほんの数分だろうけども、ホントに少しずつ数字に光りがともり始め、そして全体に広がっていく。なんだか、あたたかい気持ちになった。
それから、そこにいた人達は、みんな去っていった。誰もいなくなったその部屋に妻と2人で、しばらくいたりする。みんな、やっぱり暗くなるのを待っていたんだ。その機会を作ったかもしれない。それは勘違いかもしれないが、満足感はあった。
(2000年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。