アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「“ゴッホとその時代”展―Ⅴ|最終篇| ゴッホと四季」。1997.9.12~11.11。安田火災東郷清児美術館。

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「“ゴッホとその時代”展―Ⅴ|最終篇| ゴッホと四季」。1997.9.12~11.11。安田火災東郷清児美術館

 

1997年11月11日 

 

 招待券を知人から、もらった。新宿の高層ビル。なんで、42階なんだろう?と思った。縁起が悪いと避けられそうな階。かなり観客は多く、上品そうな中年女性が目立つ。その昔、もし、ゴッホと同じ時代だったら、絶対に見ないと思うような人達だと思う。自分も、そうだと思うけれど。

 

 ゴッホのウニウニした筆遣い。今、見るとそれほど、ぐわんぐわんした感じがしない。それだけ、今の時代がおかしくなっているのかもしれない。というか、情報量の違いだろう。以前が、正しいわけでもない。時間の流れというものかもしれない。単純にいえば。ただ、100年前というのを考えると、なんで、こんなにゴテゴテしなくちゃいけないんだ、とも思ってしまうのは、どこかで読んだ知識がそう感じさせるだけなのだろうか。それにしても、この画家が、認められない天才の悲劇の代表なのは、どうしてだろう。認められないまま、というのが悲劇のはずだが、でもそれはありふれた話になってしまうんだろうか。いろいろ、絵を見て、よけいなことを考えた。それだけ、すべてを黙らせる絵ではなくなっているのかもしれない。

 

 元々、見るだけで、それほどの衝撃を得ようというのが間違っているのかもしれない。ただ、昔は他に視角に訴えるものが少なければ、その衝撃の度合いが今とはまったく違っていた可能性もある。前へ、進むしかない。それに疲れたら、昔はよかったにしかならない。老化かもしれない。

 

 たとえば、ゴッホを家の壁にずっと飾っておいたらどうだろう。1回、1秒にも満たないとしても、何百、何千と見る事で、何らかの影響は積もってくるだろう。家の壁とか本棚の背の字とか、いつも見ているものは、意図しない、でも想像以上の影響を与えられている可能性もある。

 

 ここにある「ひまわり」。にせものじゃないか。という説があるらしい。確かに、他の絵と比べると明らかにテンションが低い。ゴッホの中では、にせものじゃないといしても、イイもの(こういうのも嫌な言い方だが)ではない、と思った。

 

 

(1997年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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