アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「シンクロニシティ」。2017.9.23~11.26。東京都写真美術館。

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シンクロニシティ」。2017.9.23~11.26。東京都写真美術館

2017年11月25日。

 クレマスターの最初の2本を見たあと、少し時間があったので、写真展を見ようと思って、午後5時前くらいに3階に上がった。映画の半券で割引できる、という文字を見たけど、今回のプリントアウトの紙では無理だといわれ、500円を払って、入場券をもらって、それを見せて部屋に入る。

 

 久しぶりに写真展を見に来た。最近のアートは写真はほぼ不可欠な状態なので、写真そのものを見る機会、映像を見る回数は確実に増えているのだけど、写真だけ、その写真そのものの表現ばかりが並んでいる場所は、本当に久しぶりだと思う。

 

そして、最初の作品は、原美樹子。シャッター音が小さくて、ファインダーものぞかないから、撮られた相手も撮られたことに気がつかないような写真。それは自然、という言葉では難しいかもしれないが、撮られる意識のない様自体が新鮮というか、いつもは気がつかない人の表情がそこにあって、しかも生活の中では、こういう顔などをじっとは見られないし、もし、見ることに気がつかれてしまったら、その瞬間に違う顔になっちゃうし、みたいなことを思うと、貴重なことがそこにある、のは伝わってきたように思った。最初のキャプションに、撮影者の言葉があったりして、この作品も、すくいとるように、という言葉があって、確かにそういう繊細さみたいなものがあったように思って、こうは撮れない、とも思った。ちゃんと写そうとすることが写っていて、ただ、あとになって考えたら、全部が成功したわけではなく、かなりの数を撮影して、選んでいるはずだとも思った。

 

 朝海陽子。人が映画を見ている姿を写真に撮っていて、そして、その見ている映画のタイトルも一緒にある。その表情は、確かに自分を忘れている感じになっているのは、新鮮でもあるし、このコンセプトは思い付きそうで思い付かないし、面白いと思うし、狙いがしっかりしていて、写るべきものを写しているはっきりとした写真が並んでいる。

 

 田村彰英。湾岸。横浜ベイブリッジの建設途中の大きい写真。単純に、おー、こんな感じだったのか、それに、出来たのが平成に入ってからだったっけ?みたいなことも思ったし、時間や歴史を、おそらく無意識に近いくらいで振り返っていたと思う。

 

 金村修。都会の、ごちゃごちゃした感じが、おそらくは見たいものしか見ていないから、普段は目に映っているのに意識していない街の姿が、そこにあるのだと思ったし、以前、トークショーで見た、ロックンローラーみたいな写真家で、そして言葉の強さも思い出した。廃墟撮るような人は頭が悪くてイヤ、みたいなことを言っていたのを、写真を見て、思い出す。

 

 土田ヒロミ。毎日、自分を写す。それを30年続けている。時間がたつと、1年2年では変わらないけれど、もっと年数がたつと、確実に老けているのが分かって、そこに時間が写っていたりする。写真は時間が写している、というのを改めて思ったりもする。

 

 川内倫子。独特の柔らかさ、というか、あの世感みたいな、独特の感触。こういう瞬間が、確かにあるんだ、どうして、その瞬間にいられるんだろう、気がつけるのだろう、といった驚きみたいなものがいつもある。あとで、ポストカードを買ってしまった。階段に光がさして、光の階段みたいになっていて、そこを学生たちがあがっている、というように見える。

 

 野口里佳。初めて地球に降り立った人の目線。というテーマ。その狙いは、写真を見ると、無理なくうなずける。今回は、とばない鳥。人にも見えた。

 浜田涼。抽象画みたいな写真。狙いが鮮明、それが成功している。

 都築響一。考えたら、柳田國男みたい、とも思う瞬間があり、この人がいなければ、知らないままに消えて行くいろいろなものがあるんだろうな、と思ったりするから、優れたドキュメンタリストみたいな人かもしれない、とも感じた。

 米田知子。いつも歴史的な場所で撮影している。

 あと、何人もの写真家。どの人も狙いがあって、そして、写っているものがしっかりと写っている。何が写っているのか、写そうとしているのか、それがはっきりと分かる。

 こういうことが写真を撮ることなのかもしれない、とも思った。

 

 

(2017年の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

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