2018年7月11日。
破滅ラウンジ、という個展を2010年におこなっていて、その廃墟というか、ゴミ屋敷感みたいなものは映像でしか見たことがなかったけれど、気になっていて、どうして見なかったのだろう、と後悔と共に思ったりもしていたので、今回の「破滅アフター」という個展は見たかった。
森ビルの展覧会を見に行くと、帰りに通ることになるショップの奥にギャラリーがあって、そこには、「あ、カオスだ」と思えるような展示があって、それは、キャラクターと、コンピューターと、電子機器ということだと思うが、ゲームもSNSもやっていないから、本当のところでは分かっていないと、いつも思うのだけど、それでも、気になるし、梅沢和木の作品は、今の時代のもの、という、集合知というか、集合感みたいなものは確かに感じるし、その作品はやはり気持ちがいいし、美しさがあるとも思っている。
梅沢の作品は、今回も、いろいろと重層的な要素がありながらも、あ、梅沢和木だ、と分かるような作品になっていて、8年前に見た時は、これから先に、フォロワーがたくさん出て来て、似た作家が出てきそうだと感じたのだけど、そして、知らないところで似た感じは増えたのかもしれないけれど、それから著作権の問題がからんで来たり(それはサンプリングの問題と似ているのかもしれない)、ただ、いつもそのセレクトが圧倒的で、センスがいいとしかいえない感じがして、どれだけの時間をインターネットに費やしているのだろうとも思ったりもした。
全体を見ても、ゲームもしないし、SNSもしないから、ピンとこないのかもしれない、とも思ったが、帰って来てから、ステートメントを読んだ。
なんだか、いろいろと分かったような気持ちになったのだから、文章の力、というか、コンセプトの力みたいなものが強いのかもしれない。
その文によると、8年前に若いエンジニアに2カ月にわたって、ギャラリーに住まわせて、そこでプラミング合宿をして、それを展示したのだという。それが「破滅ラウンジ」で、その空間が本当にゴミだらけというか、写真で見ただけだが、そして、チラッと動画も見たが、こんな空間が実現していたのかと思うと、村上隆が、これを見ないと、今後10年アートを語れない、といっていたのも、少し分かる気がして、そして、まだ、それから10年たっていない。
それでも、そこと関係のある、「破滅アフター」は今回は、見に行ったので、少しは分かりたいものだけど、今回は、sampoという若いモバイルハウスの試みをしている人たちと組んで、その作品をメインにして、ということだったのだけど、オープン前日になって、参加出来ない、ということで、撤去されたという。その出なかった作家は、こわかったのではないか、と勝手に推測するのは、そのホームページを少しだけのぞいたが、健全な明るさがあったように思えたからで、カオスラウンジは、どちらかといえば、暗いすごみがあるような気がして、それがたぶん見たくなる部分でもあるのだろうけど、ただ、こういうトラブルも含めて、想像するしかないのだけど、こういうのは、デュシャンの「網膜的でない」作品のような気もしてくるが、そんな背景も含めて想像して、なんだか充実感があった。
さらには、カオスラウンジがすでに「老い」の象徴でもある「ブレーメンの音楽隊」というたとえをしていたが、もっと年長世代である自分は、もうとっくに死んでいるということかもしれないが、それでも、また見たいと思った。
(2018年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。