アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「TOKAS-Emerging2025」。2025.4.5~5.4 トーキョーアーツアンドスペース本郷

 

2025年4月9日。

www.tokyoartsandspace.jp

 

奥村美海 「もも、Qうしゅう、32850日」

 

 最初の展示室は1階にある。

 そこに抽象的でありながら、人が手描きで介入しているのがわかる平面作品がある。それも、ただ壁に設置されているだけではなく、断面のような作品が吊るされて、そのことで空間への浸透力が強めになり、ここから先は入らないでください、という目印のテープは貼られているものの、作品に近づくと、周囲を囲まれて、また受ける感覚が少し変わる。

 こういうことはとても単純な構成だけど、実際に展示会場に来ないと味わえない感じでもあると、改めて思う。

 作品の色合い、線の勢い、形、そうした要素を全部含めて、鑑賞者は感じているのだと思うけれど、心地いい、好感の持てる印象になっている。

 だから、そこに立ち止まって、見て、見回しているだけで、気持ちが少し変わっていく。

 ただ、ハンドアウトやチラシによると、20代の作者が、90歳を超えた祖父へ話を聞いて、その要素をバラバラにして、そして、再構成しているらしい。だけど、そのことを知らなければ、明るさや、なぜか新しさも感じる抽象的でも具象的でもある作品だった。

 ただ、祖父の話、というより、言葉が元になっている、ということを知ると、その作品の構成要素のようなものを想像し、そこに厚みのようなものも見えてくるような気がするし、展示会場には、作者が祖父に話を聞いている時の映像も流れているから、その祖父の方の戦争中の話など自体が、歴史的にも貴重なものでもあるし、映像を通してでも、こうして声が聞けるというのは、伝わってくる情報量はすごく多いし、そういう機会をつくることに意味があるとも思ってしまった。

 そうした言葉を聞いたあとに、作品を見ると、微妙に見え方も変わってくるし、感じる気持ちも変化してくるような気がする。

 思った以上に意味が重なっていて、その空間は最初に見たときよりも、魅力的に見えた気がする。

 

野村由香 「光る山

 

 階段を上がって、2階の展示室は、また気配が違っていた。

 全体的に黒く、少し臭いまでするのは、炭鉱がテーマになっているからのようだ。

 作家は、1994年生まれだから、炭鉱が現役の頃は知らないはずだけど、「石炭の不思議な艶かしさに魅了され、北海道、九州、宇部の炭鉱跡を調査し、炭鉱夫の方々が労働の合間に詠んだ俳句などを手がかりに石炭を顔料としたドローイングを描き連ねました」ということだから、まず石炭の物質としての機能ではなく、今はあまり日常的に使用されないだけに、その存在が気になったところから始まったらしい。

 そう言われると、石炭も、すでに日常的でなくなってきた時代だから、それほど知らないにしても、石炭は妙にキラキラしていて、ちょっと変な存在感があったことを思い出す。

 それは実用とは縁遠くなったときに、ただ物質として見られる人にだけ特有の感覚かもしれない。

 そして、そのドローイングは黒く、どうやら石炭によるドローイングのようで匂いもある。独特の粗い質感の作品が並ぶ。

 さらには、大きなヘビのような立体が展示室の大部分を占めている。そのそばには木馬がある。それは和紙でできているようだ。ハンドアウトによると、その素材は「石炭、和紙、木材、接着剤」で、シンプルだけど、異物感がある。

 それは、坑道をイメージした立体のようだった。それは、考えたら、地面の下に石炭を採掘するためにただ掘り進んだ結果で、それには目的はあるけれど、その形になった理由はない。

 そんなようなことを考えた。

 私も知らない時代のことだけど、石炭はエネルギーの原料として、とても貴重なものだったことがある。それは、炭鉱の街を生んで、それを知っている人たちによれば、そこに住む炭鉱の関係者の家では電気代や水道代もタダで、映画を上映される映画館もあれば、そこにスターもやってくるような、とても豊かで繁栄を象徴するような場所でもあったらしいことを聞いたこともある。

 

artaudience.hatenablog.com

 

 だけど、今は、そんな華やかさがわかるものはなく、話を聞く側としては、夢の内容に似ていると思えることまである。

 そして、まだ若いアーティストには、純粋に作品のインスピレーションのもととなり、だけど、知らないはずの作家が、その当時の気配を伝えてくれているのだとも思った。

 さらに階段を上がる。

 3階は、2人のアーティストの作品が展示されていた。

 

高橋直宏  「インフラ・ヒュー/マンと3つのC」

 

 そこには主に木材で製作された人体が並んでいた。

 ただ、それは、まるで素材のように切られて、組み合わされて、しかも、金属がはさまれていたり、顔を何かで覆われていたり、複数の人体と思われる部分が組み合わされている。それだけで、とても異質な気配がする。

 動かない物体なのに、とても何かを訴えているような気がする。

 この作品のタイトルは、やはりわかりにくい。特に、3つのCというのがわからない。ハンドアウトによると、こうした説明がある。

『私は「切断(Cut)」という行為には、ある対象を「運搬(Carry)」可能にし、また別の対象とも「結合(Combine)」可能にする性質があると考えている。例えば切断された動物の肉が商品として運搬され、食べることで自らの体に結合するといったように、私たちは交通、通信、医療、エネルギーなど社会や経済活動を支える基盤を通して、この「3つのC」に日々囲まれている。それは私が対象を経済化すること、そして経済化された私に出会うことである』

 3つのCは、わかったけれど、そして、作品を見て、実は組み立てベッドの一部を使ったりしているのも知ると、さらに意味が傘なるような気もしていくるし、日常とは違う異質な感覚は伝わってくるけれど、でも、この作者の説明ほどの広がりは、自分にはわからなかった。

 それでも、これまでもずっと人類の長い歴史の中で、人体をテーマにした立体物は、どれだけ製作されてきたかわからないし、もちろん傑作と呼ばれるような作品も時代ごとにいろいろあるのは知っているけれど、それでも、今回の作品を見て、懐かしさと既視感だけではなく、新しさも感じることができた。

 そういうことを、思えること自体が不思議な気がする。

 

井澤茉梨絵   「生き物の形、環境の形」

 

 高橋の立体作品は、展示室の中で静かに、だけど、見ていると濃厚な気配も発していたのだけど、静止されている感じもしたのだけど、不思議と暗めな気配もした。

 そこから、奥に進むと、次の展示室は井澤の絵画作品だった。

 窓があって、外の光も差し込んでいて、ごく普通に日常的な光景も見えていて、なんとなく緊張感も減って、気持ちもいい。

 壁の角もまたがっているような大きな絵画作品。

 他にも抽象的でもあり、具象的でもある絵画が並ぶ。それも、一見、緻密というよりは、感覚を優先させて画面をつくっていったような、言葉にすると安直かもしれないけれど、初期衝動のようなものを十分に感じさせる作品だった。

 窓から外が見える開放感と、絵から受ける感じが、混ざり合っていくような感じがする。

 気持ちがいい。

 作家のステートメントには『「絵画の中にしか存在し得ないもの」を表現する試みの中で、枠組みのなかでもがくことで生まれる力強い形に目を向け「適応と反発」というテーマで製作を続けています』とあるのだけど、さまざまな表現方法がある現代で、そして、すでに何十年前にも「絵画の時代は終わった」的なことが美術界では言われたらしい時もあったのに、そうしたためらうような気配がなく、井澤には、揺らがない絵画への信頼感があるように思った。

 それ自体が、21世紀には珍しくなっているのかもしれないけれど、そのことが、さまざまなものが描かれていて、よく見ると、怖そうな部分もありながら、伝わってくる強さや明るさにつながっているのかもしれない。

 そんなことを、展示室にあるベンチに座りながら、思っていた。

 失礼ながら、どの作家のことも全く知らなかった。

 だけど、とてもいろいろなことを感じたり、考えたりもできた。

 そして、間違いなく、新しさや、若さといったことを、もしかしたらプロフィールなどを読んだ上だからかもしれないけれど、やはり、感じていた。

 

作品の新しさ

 

 もちろん鑑賞者の気のせいかもしれないけれど、作品に新しさを感じるのは、どういうことだろうと思うことはある。

 自己承認欲求や、有名になりたいとか、お金が欲しいとか、もちろんいろいろな欲望は生きている人間だからあるには違いないけれど、作品を製作して、ベテランに比べたら、まだ年数が浅いに決まっているのだし、作品をどうつくっていくかの迷いも多いはずだけど、おそらく、まだいい作品をつくりたい、という純度が高いのだと思う。

 これから先、作品をつくり続けられたとしても、その中で評価されることが逆に製作へのにごりとなってしまったり、どこにもない作品はつくれないのではないかといったことに気がついてしまったり、いろいろなことがあって、それも作品の深みのようなことにつながる可能性はあるが、とにかくオリジナルなものを、いい作品を、という気持ちの純度の高さが、作品を新しく見せるのではないだろうか。

 今回、35歳以下のアーティストの作品を見て、改めてそんなことを思った。

 公共施設の一つでもあるかもしれないので、入場は無料だが、充実したハンドアウトもあるし、静かな環境の中で、気持ちよく作品に接することができた。

 来て、よかった。

 

 

 

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